幸せでいるための秘密



「本当にここでいいんですか?」

 怪訝な顔をする運転手さんに軽く頷き、私はタクシーを降りると水平線を見渡した。

 静かに凪いだ穏やかな海。日はまだ高いけど、辺鄙な場所だからか人の姿は見当たらない。

 石階段を少し降りると、広い浜辺が広がっている。私が一歩進むごとに、靴底の形にへこんだ砂浜が波にさらわれて元に戻っていく。

 私はスカートを軽く押さえて、砂浜の真ん中に腰を下ろした。焼けた砂は少し熱いけど、思ったよりも心地よい。海風だって、コンクリートジャングルの街中に比べればずいぶん涼しいように感じる。

 波が揺れている。

 煌々と輝く太陽が、少しずつ海へと傾いていく。

 何時間ほど経っただろう。やがて太陽の端が水面に触れて、海全体が淡い橙に輝いた。空の彼方から夜の帳がじわじわと幕を下ろし始めて、それに呼応するみたいに海からも闇がせり上がる。

 夜が来る。

 そう思ったとき、傍らから砂を踏みしめるかすかな足音が聞こえた。私は膝を抱え、海を眺めたまま、彼の足音が止まるのを待つ。

「いつまでそうしているつもりなんだ」

 想像以上のなじるような声に、少しだけ笑いそうになってしまった。

 私はゆっくり立ち上がると、お尻についた砂を払い落とした。水平線と砂浜を背景に、彼は――樹くんは、ひどく居心地悪そうな表情で立ちすくんでいる。

 私と彼の間隔は、私の足で六歩程度。

 手を伸ばしても触れられない、今の私と樹くんの距離。

「きみはずるい」

「なにが?」

「留守電のメッセージ。わかっているんだろう?」

 ――海浜公園で待っています。樹くんが来てくれるまで。

 返事のない彼の留守番電話に、私が最後に入れたメッセージ。苦々しい顔をする彼を見つめ、私は少し微笑んで頷く。

「来てくれるって、わかってた」

 こんなひと気のない夜の公園に、彼が私を一人にしておけるはずがない。

 連絡の取れない、居場所もわからない彼ともう一度顔を合わせるための、たった一つの方法だと思ったから。

「話がしたいの」

「俺に話せることはない。桂が言ったことがすべてだ」

「樹くんにとってはそうかもしれないけど、まだ私の話は終わってない」

 口を噤んだ樹くんは、険しい顔のまま私を見つめる。

 彼に聞く気があるのを確認してから、私はいつになく落ち着いた、堂々とした声で言った。

「教えてもらったの。私たちには、きちんと最後まで話し合う勇気が足りなかったんだって」

 波の音が聞こえる。

 ざあ、ざあと寄せて返す中に、彼方を羽ばたく鳥の鳴き声が遥か遠くから入り混じる。
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