幸せでいるための秘密
番外編・後日談
その時はきっと
・本編14ページのその後の話(波留の家に逃げ込み夕食を食べる直前、百合香が泣き出した後のこと)
・波留視点三人称
・本編を書く息抜きに書いたおまけです
*****************
コトン。
テーブルに置かれた空き缶の音が、いやに大きく耳に響く。
正面のテレビを見つめるふりをしながら、テーブルに転がる缶の数を数えた。2、3、4……いくらアルコール度数の低い缶チューハイばかりとはいえ、飲みすぎと言わざるを得ないだろう。
波留の記憶にある中原百合香は、それほど酒に強くはなかった。部活の飲み会の時だって、先輩に勧められるがまま飲まされ、弓道場の片隅で小さくなって眠っていることが多かったように思う。
「大丈夫か?」
返事はない。
ソファの上で膝を抱えた百合香は、般若か何かのようなしかめっ面をしながら食い入るようにテレビを睨みつけている。
題材を間違えた、と波留は心で嘆息した。百合香が選んだ映画だからとすべて任せて流していたが、今の百合香の精神状態ではこれを観るのはつらいだろう。
想いあう男女が家庭の事情で別れを選び、しかし再び結ばれあう古典的なラブストーリー。
「……中原?」
波留の声なんてまるで耳に届いていないようで、百合香はぎりぎりと奥歯を噛みしめながらチューハイの缶を握りつぶした。
ゴトン。さっきより大きな音を立ててチューハイがテーブルの上へ転がる。そして止める間もなく次の缶がプシュと小さなしぶきを漏らした。
目が、完全に据わっている。
「中原、一度水を挟んだ方がいい。このままだと水分不足で明日の朝がつらくなる」
「らいじょーぶらって! こんくらい!」
あ、だめそうだ。
波留の手を振り払い、百合香はチューハイに口付けると一気に中身を飲み干した。っあー! なんておっさんのような声を上げながら、そのままぐらりと波留の方へ倒れこんでくる。
「おっと」
「んあー、ろめん。ごめんね、はるくん……」
ただ起き上がろうとしただけなのだろう、百合香は波留の膝に真っ赤な手を、それから波留の肩へ自分の頭をごつんとこすりつけてきた。これが酒のせいではなくて彼女の意思だったらなぁと、他人事みたいに思いながら彼女の腰に手を回す。
「座っていられるか? 今、水を持ってくるから」
「んー、べつにいい……」
「ひとくちでいいから飲んでくれ。心配なんだ」
百合香はしばらく波留の胸に頬を預けていたが、やがて力なく顔を上げると、
「じゃあ、飲む……」
なぜか拗ねたような顔で、そう言った。
「いい子だ」
百合香の頭を子犬のようにひと撫でしてから、波留はキッチンへ向かうとコップ一杯の水を持って戻ってきた。
百合香はなぜか床に座り、ソファの腰掛を背もたれにしてじっとテレビを眺めている。
その手にコップを握らせてやれば、かろうじて両手で持ちはした。ただ飲む気配がない。百合香は吸い込まれるように、ただテレビの一点を見つめているだけだ。
涙を流して抱きしめあう、美しい恋人たちの姿を。
「……中原。もう寝よう」
リモコンを取り上げ、電源を切った。百合香は怒りも戸惑いもせず、もはやテレビの画面すら見えていないようだ。
「隣の部屋に俺のベッドがある。今日はそこを使ってくれ」
「……ここで寝る」
「え?」
「動きたくない。あとたぶん、立ったら吐く」
すかさずエチケット袋を取り出したが、見た限り百合香にその気配は見られない。
きっと吐き出しそうになっているのは、胃ではなく心に溜まっているもののほうなのだろう。そう思ったから袋は渡さず、代わりに百合香の隣に座ると彼女と目を覗き込んだ。
「なら、せめてソファで横になろう。床で眠ると身体を痛める」
百合香、俺が見えるか?
きみの目に俺は映っているか?
心の中で語りかけた声は、たぶん彼女には届かない。
百合香は焦点の合わない瞳で、波留よりずっと遠くにあるものをただぼんやりと眺めている。
「……今、ソファの背もたれを開くから」
失意を気取られぬよう立ち上がりかけた時だった。
ふいに腕を掴まれたと思うと、そのまま首に腕が回った。ぎゅうと抱き寄せられるまま、波留の頬に百合香がこめかみをすり寄せる。
「いかないで」
なまぬるいものが雨粒のように頬へ落ちる。
「一緒にいて」
ぽた、ぽた、と。
はじめはささやかだったそれは次第に勢いを増し、合間にしゃくりあげる声が混ざり始めた。子どものように声を震わせ、波留の首にすがりつきながら、百合香はうわごとのように男の名前を呼んでいる。あきら。あきら。あきら。
「わかった」
――このくちびるが紡ぐ名前は、世界で俺ひとりであればいい。
そんな本音を心に秘めて、波留は百合香の身体を横抱きに持ち上げた。大いなる酩酊に溺れた想い人は、男の腕に抱かれながら違う男の名前を呼ぶ。
別れはつらいだろう。苦しいだろう。今までの思い出に苛まれ、攻め寄せる後悔に心が耐えられなくなっているのだろう。
今はそれでも構わない。今だけは。
「ずっと一緒にいる。永遠に」
ソファベッドに寝かせた身体が、誘うように両腕を開く。
うつろな瞳は鏡のように波留の顔を映し、かすかに開いたちいさな唇は酒でしとどに濡れている。
「愛してる」
人差し指で涙をぬぐい、そのまま額に口付けた。
百合香はゆっくりとまばたきをして、波留の背中を掻き抱く。お気に入りのブランケットにすがる幼児のように。
波留もまた求められるがまま、百合香の身体に覆いかぶさった。彼女の心が別れの寒さをすべて忘れたなら、その時はきっとこの首筋に消えない跡をつけてやろうと思いながら。
・波留視点三人称
・本編を書く息抜きに書いたおまけです
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コトン。
テーブルに置かれた空き缶の音が、いやに大きく耳に響く。
正面のテレビを見つめるふりをしながら、テーブルに転がる缶の数を数えた。2、3、4……いくらアルコール度数の低い缶チューハイばかりとはいえ、飲みすぎと言わざるを得ないだろう。
波留の記憶にある中原百合香は、それほど酒に強くはなかった。部活の飲み会の時だって、先輩に勧められるがまま飲まされ、弓道場の片隅で小さくなって眠っていることが多かったように思う。
「大丈夫か?」
返事はない。
ソファの上で膝を抱えた百合香は、般若か何かのようなしかめっ面をしながら食い入るようにテレビを睨みつけている。
題材を間違えた、と波留は心で嘆息した。百合香が選んだ映画だからとすべて任せて流していたが、今の百合香の精神状態ではこれを観るのはつらいだろう。
想いあう男女が家庭の事情で別れを選び、しかし再び結ばれあう古典的なラブストーリー。
「……中原?」
波留の声なんてまるで耳に届いていないようで、百合香はぎりぎりと奥歯を噛みしめながらチューハイの缶を握りつぶした。
ゴトン。さっきより大きな音を立ててチューハイがテーブルの上へ転がる。そして止める間もなく次の缶がプシュと小さなしぶきを漏らした。
目が、完全に据わっている。
「中原、一度水を挟んだ方がいい。このままだと水分不足で明日の朝がつらくなる」
「らいじょーぶらって! こんくらい!」
あ、だめそうだ。
波留の手を振り払い、百合香はチューハイに口付けると一気に中身を飲み干した。っあー! なんておっさんのような声を上げながら、そのままぐらりと波留の方へ倒れこんでくる。
「おっと」
「んあー、ろめん。ごめんね、はるくん……」
ただ起き上がろうとしただけなのだろう、百合香は波留の膝に真っ赤な手を、それから波留の肩へ自分の頭をごつんとこすりつけてきた。これが酒のせいではなくて彼女の意思だったらなぁと、他人事みたいに思いながら彼女の腰に手を回す。
「座っていられるか? 今、水を持ってくるから」
「んー、べつにいい……」
「ひとくちでいいから飲んでくれ。心配なんだ」
百合香はしばらく波留の胸に頬を預けていたが、やがて力なく顔を上げると、
「じゃあ、飲む……」
なぜか拗ねたような顔で、そう言った。
「いい子だ」
百合香の頭を子犬のようにひと撫でしてから、波留はキッチンへ向かうとコップ一杯の水を持って戻ってきた。
百合香はなぜか床に座り、ソファの腰掛を背もたれにしてじっとテレビを眺めている。
その手にコップを握らせてやれば、かろうじて両手で持ちはした。ただ飲む気配がない。百合香は吸い込まれるように、ただテレビの一点を見つめているだけだ。
涙を流して抱きしめあう、美しい恋人たちの姿を。
「……中原。もう寝よう」
リモコンを取り上げ、電源を切った。百合香は怒りも戸惑いもせず、もはやテレビの画面すら見えていないようだ。
「隣の部屋に俺のベッドがある。今日はそこを使ってくれ」
「……ここで寝る」
「え?」
「動きたくない。あとたぶん、立ったら吐く」
すかさずエチケット袋を取り出したが、見た限り百合香にその気配は見られない。
きっと吐き出しそうになっているのは、胃ではなく心に溜まっているもののほうなのだろう。そう思ったから袋は渡さず、代わりに百合香の隣に座ると彼女と目を覗き込んだ。
「なら、せめてソファで横になろう。床で眠ると身体を痛める」
百合香、俺が見えるか?
きみの目に俺は映っているか?
心の中で語りかけた声は、たぶん彼女には届かない。
百合香は焦点の合わない瞳で、波留よりずっと遠くにあるものをただぼんやりと眺めている。
「……今、ソファの背もたれを開くから」
失意を気取られぬよう立ち上がりかけた時だった。
ふいに腕を掴まれたと思うと、そのまま首に腕が回った。ぎゅうと抱き寄せられるまま、波留の頬に百合香がこめかみをすり寄せる。
「いかないで」
なまぬるいものが雨粒のように頬へ落ちる。
「一緒にいて」
ぽた、ぽた、と。
はじめはささやかだったそれは次第に勢いを増し、合間にしゃくりあげる声が混ざり始めた。子どものように声を震わせ、波留の首にすがりつきながら、百合香はうわごとのように男の名前を呼んでいる。あきら。あきら。あきら。
「わかった」
――このくちびるが紡ぐ名前は、世界で俺ひとりであればいい。
そんな本音を心に秘めて、波留は百合香の身体を横抱きに持ち上げた。大いなる酩酊に溺れた想い人は、男の腕に抱かれながら違う男の名前を呼ぶ。
別れはつらいだろう。苦しいだろう。今までの思い出に苛まれ、攻め寄せる後悔に心が耐えられなくなっているのだろう。
今はそれでも構わない。今だけは。
「ずっと一緒にいる。永遠に」
ソファベッドに寝かせた身体が、誘うように両腕を開く。
うつろな瞳は鏡のように波留の顔を映し、かすかに開いたちいさな唇は酒でしとどに濡れている。
「愛してる」
人差し指で涙をぬぐい、そのまま額に口付けた。
百合香はゆっくりとまばたきをして、波留の背中を掻き抱く。お気に入りのブランケットにすがる幼児のように。
波留もまた求められるがまま、百合香の身体に覆いかぶさった。彼女の心が別れの寒さをすべて忘れたなら、その時はきっとこの首筋に消えない跡をつけてやろうと思いながら。