幸せでいるための秘密
夜はお静かに
・本編17ページ以降の話(波留と百合香のルームシェア期間中)
・百合香視点三人称
・がんばれ社会人
*
『今日も遅くなる』
またこれか、と百合香は思う。
これでもう三日連続だ。最近の波留はとにかく仕事が忙しいようで、昨日も一昨日も日付が変わってからやっと帰ってきたほどだった。
百合香と波留は一緒に寝ているわけではない。寝室は別で、お互いの生活リズムも違う。
ただの同居人である以上、別に百合香が波留の帰宅を気にする必要はないのだが。
(今日もやっぱり待とうかな。お夕飯を温めたり、お風呂の追い炊きをしたり、私にもできること色々あるし……)
いつものように定時で仕事を終えまっすぐ帰ってきた百合香は、とうの昔に夕飯も風呂も済ませている。波留の分の夕食はすでにタッパーから皿へと移し、温めるだけで食べられるよう冷蔵庫へ片づけた。
ソファに深々と腰かけ、読みかけの文庫本を開く。読み始めたばかりの恋愛小説は、この三日間でクライマックスを迎えようとしていた。
玄関のドアが開いたのは、夜中0時を半ばほど過ぎた頃だった。
濡れた肩を軽く叩きながら、大きな鞄を持った波留が足音を忍ばせてやってくる。彼は電気がついたままのリビングを見、それから百合香の姿を見つけると、困ったような、でも嬉しそうな顔をして微笑んだ。
「今日も起きていてくれたのか」
「本の続きが気になってたからね」
栞を挟んだ文庫本をローテーブルの端へ置く。
上着だけをコート掛けへ投げ、百合香の隣に腰かけた波留が、ネクタイを軽く緩めながら細く長いため息を吐いた。
「お疲れだね」
「ああ」
「すぐご飯温めるから」
「いや……少し待ってくれ」
自分の眉間をしきりに揉みながら、波留は難しい顔をしている。連日連夜残業三昧。睡眠もろくにとれていないだろうから、くたびれるのも無理ないことだ。
「なあ、中原……気持ちは本当に嬉しいが、俺に付き合ってきみまで起きている必要はないんだ」
「大丈夫だよ。明日は土曜日だから、少しくらい」
「そうだとしても、せめて十一時までには寝てくれないか。身体にもよくない」
「その分、明日の朝いっぱい寝坊するつもり」
波留は百合香へ物言いたげな眼差しを向け、しかし何も言わないまま再び静かに目を伏せた。言いたいことはあるのだけど、言葉を紡ぐだけの頭が回らない、と言ったところだろうか。
帰宅するまでずっと張りつめていた緊張の糸が、ソファに腰かけると同時にぷつりと切れてしまったのだろう。波留は眉間をおさえた姿勢のまま、自身の静かな呼吸に合わせてわずかに肩を上下させている。
(……波留くん、寝ちゃった?)
そっと顔を覗き込んだとき、不意に波留の顔がぐらりと倒れたかと思うと、それはそのまま百合香の左肩に寄りかかって動きを止めた。濡れた毛先からかすかな雨のにおいがする。伏せられた長いまつげ。うっすらと開いた唇から、規則正しく漏れる吐息。
こんなに無防備な波留の姿を見たのは何年ぶりだろう。無邪気な恋人同士だった大学時代を思い出し、少しだけ身体が熱くなる。
(きれいな寝顔)
一晩中でも眺めていられると、あの頃は確かに思っていた。
当時はどちらかというと、うたた寝をするのが百合香の役目で、もっぱら波留がその寝顔を眺める側に回っていたように思う。そして波留は、百合香が完全に眠りにつくまで、何十分でも彼女の髪を撫で続けた。
(懐かしいな……)
左肩の温もりへ、途端にいとおしさがこみ上げる。それから、胸の痛みも。
百合香が天井を見上げた刹那、左肩で留まっていた波留の頭が、再びずるずると降り始めた。二の腕から肘を経由して、そのまま膝へ。薄いピンクのルームウェアに、波留の艶やかな黒髪が散らばる。
そしてその拍子に、まどろみの中にいた波留も気がついたようだ。開いた瞳は未だ焦点が合わないが、それでも急いで頭を浮かせるとそのまま起き上がろうとした。
「悪い、……」
ワイシャツの肩に触れた指が、彼の身体をそのままソファへ押し戻す。
二度瞬きをした波留は、百合香の顔を見上げようとした。でも、それより先に百合香の指が、蛍光灯から遮るように波留の瞳を覆い隠した。
「いいよ」
できるだけ感情を載せないように、百合香は努めて淡々と言った。
「このまま寝てもいいよ」
薄く開いた波留の唇が、続く言葉を見失ったきり黙り込む。
それはやがて、ほとんど吐息と紛うほどのかすかな声で、小さく百合香の名を呼んだ。中原、ではなく、百合香、と呼んだように聞こえた。
百合香はソファの背もたれにかかっていた薄手の毛布を引き寄せると、それを波留の身体にかけ、部屋の電気をリモコンで消した。
常夜灯の心許ない灯りにぼんやり照らされながら、彼女はいつまでも、いつまでも、波留の黒髪を撫でていた。
おわり
・百合香視点三人称
・がんばれ社会人
*
『今日も遅くなる』
またこれか、と百合香は思う。
これでもう三日連続だ。最近の波留はとにかく仕事が忙しいようで、昨日も一昨日も日付が変わってからやっと帰ってきたほどだった。
百合香と波留は一緒に寝ているわけではない。寝室は別で、お互いの生活リズムも違う。
ただの同居人である以上、別に百合香が波留の帰宅を気にする必要はないのだが。
(今日もやっぱり待とうかな。お夕飯を温めたり、お風呂の追い炊きをしたり、私にもできること色々あるし……)
いつものように定時で仕事を終えまっすぐ帰ってきた百合香は、とうの昔に夕飯も風呂も済ませている。波留の分の夕食はすでにタッパーから皿へと移し、温めるだけで食べられるよう冷蔵庫へ片づけた。
ソファに深々と腰かけ、読みかけの文庫本を開く。読み始めたばかりの恋愛小説は、この三日間でクライマックスを迎えようとしていた。
玄関のドアが開いたのは、夜中0時を半ばほど過ぎた頃だった。
濡れた肩を軽く叩きながら、大きな鞄を持った波留が足音を忍ばせてやってくる。彼は電気がついたままのリビングを見、それから百合香の姿を見つけると、困ったような、でも嬉しそうな顔をして微笑んだ。
「今日も起きていてくれたのか」
「本の続きが気になってたからね」
栞を挟んだ文庫本をローテーブルの端へ置く。
上着だけをコート掛けへ投げ、百合香の隣に腰かけた波留が、ネクタイを軽く緩めながら細く長いため息を吐いた。
「お疲れだね」
「ああ」
「すぐご飯温めるから」
「いや……少し待ってくれ」
自分の眉間をしきりに揉みながら、波留は難しい顔をしている。連日連夜残業三昧。睡眠もろくにとれていないだろうから、くたびれるのも無理ないことだ。
「なあ、中原……気持ちは本当に嬉しいが、俺に付き合ってきみまで起きている必要はないんだ」
「大丈夫だよ。明日は土曜日だから、少しくらい」
「そうだとしても、せめて十一時までには寝てくれないか。身体にもよくない」
「その分、明日の朝いっぱい寝坊するつもり」
波留は百合香へ物言いたげな眼差しを向け、しかし何も言わないまま再び静かに目を伏せた。言いたいことはあるのだけど、言葉を紡ぐだけの頭が回らない、と言ったところだろうか。
帰宅するまでずっと張りつめていた緊張の糸が、ソファに腰かけると同時にぷつりと切れてしまったのだろう。波留は眉間をおさえた姿勢のまま、自身の静かな呼吸に合わせてわずかに肩を上下させている。
(……波留くん、寝ちゃった?)
そっと顔を覗き込んだとき、不意に波留の顔がぐらりと倒れたかと思うと、それはそのまま百合香の左肩に寄りかかって動きを止めた。濡れた毛先からかすかな雨のにおいがする。伏せられた長いまつげ。うっすらと開いた唇から、規則正しく漏れる吐息。
こんなに無防備な波留の姿を見たのは何年ぶりだろう。無邪気な恋人同士だった大学時代を思い出し、少しだけ身体が熱くなる。
(きれいな寝顔)
一晩中でも眺めていられると、あの頃は確かに思っていた。
当時はどちらかというと、うたた寝をするのが百合香の役目で、もっぱら波留がその寝顔を眺める側に回っていたように思う。そして波留は、百合香が完全に眠りにつくまで、何十分でも彼女の髪を撫で続けた。
(懐かしいな……)
左肩の温もりへ、途端にいとおしさがこみ上げる。それから、胸の痛みも。
百合香が天井を見上げた刹那、左肩で留まっていた波留の頭が、再びずるずると降り始めた。二の腕から肘を経由して、そのまま膝へ。薄いピンクのルームウェアに、波留の艶やかな黒髪が散らばる。
そしてその拍子に、まどろみの中にいた波留も気がついたようだ。開いた瞳は未だ焦点が合わないが、それでも急いで頭を浮かせるとそのまま起き上がろうとした。
「悪い、……」
ワイシャツの肩に触れた指が、彼の身体をそのままソファへ押し戻す。
二度瞬きをした波留は、百合香の顔を見上げようとした。でも、それより先に百合香の指が、蛍光灯から遮るように波留の瞳を覆い隠した。
「いいよ」
できるだけ感情を載せないように、百合香は努めて淡々と言った。
「このまま寝てもいいよ」
薄く開いた波留の唇が、続く言葉を見失ったきり黙り込む。
それはやがて、ほとんど吐息と紛うほどのかすかな声で、小さく百合香の名を呼んだ。中原、ではなく、百合香、と呼んだように聞こえた。
百合香はソファの背もたれにかかっていた薄手の毛布を引き寄せると、それを波留の身体にかけ、部屋の電気をリモコンで消した。
常夜灯の心許ない灯りにぼんやり照らされながら、彼女はいつまでも、いつまでも、波留の黒髪を撫でていた。
おわり