幸せでいるための秘密
お掃除小僧のケンタロー
・本編17ページ〜45ページの話(波留と百合香のルームシェア〜椎名の家へ一時避難の間)
・三人称
・本当にコメディです。ごめん
*
波留の家の家電はそのほとんどが新品である。
冷蔵庫、テレビ、洗濯機、食洗機。どれもこれも、揃いも揃ってここ数か月以内に製造されたものばかり。この事実に気づいたとき、百合香は「定期的に家電をぜんぶ買い替える癖でもあるのかな」と訝しく思ったものだった。
だが、そんなニューフェイス揃いの家電の中で、ひとつだけ仲間はずれがいる。
ロボット掃除機、ル〇バ。
まん丸フォルムに黒いボディ、ボタンを押すだけで勝手に部屋を掃除してくれるこの家電は、長い間ずっと百合香の憧れだった。家電量販店の掃除機コーナーで彼の姿を見かけるたびに、百合香は目をきらきらとさせてその雄姿に焦がれてきたのだ。
(これがル〇バ。ずっと欲しくて、でも高くて買えなかった、憧れの全自動ロボット掃除機!)
ところが波留家のロボット掃除機は、百合香の大きな期待に反し、若干ポンコツであった。
まず、コードに引っかかる。場合によってはラグの段差でも足をとられ、その場をぐるぐる回ったり、壁に延々と頭突きを繰り返したりする。吸引力も若干寂しく、彼が通った後にちらほらと埃が残るのも珍しくない。
そして何より、部屋の隅だ。彼の形状上仕方がないのかもしれないが、部屋の隅に追い詰められたゴミはまず放置と見ていいだろう。
それもこれも、どうやら最新式のル〇バであれば改善される問題らしい。
(この子はちょっと古い子だから、なかなか頑張れないのかな)
ソファの上に両足をたたみ、働く彼を見守りながら、百合香はひとりで胸をぽかぽかと温めていた。例えるなら、幼稚園児の運動会を眺めるような心地だろうか。
旧型なりにせっせと働くロボット掃除機の姿は、百合香の疲れた心に勇気と癒しの風を送り込んだ。彼女はいつしかロボット掃除機に『ケンタロー』という名前を与え、本物のペットの如く可愛がるようになっていった。
その日もいつものように、ケンタローは百合香の指示でせっせと床を掃除していた。
のろのろトロトロと動き回るケンタローを追いかけながら、百合香は何が面白いのか、にこにこにこにこ笑っている。
「あっ、こら、ケンタロー。だめだって……もう、しょうがないなあ。ケンタローは私がいないとだめなんだから」
例の如くコードに絡まり足を取られているケンタローを、優しく抱えてなでなでしてから広い床へ降ろしてやる。
再び元気に掃除を始めたケンタローを眺めていると、不意に廊下からドサ、と何かの落ちる音がした。
「波留くん」
「…………」
「おかえり。どうしたの? 買い物袋落ちてるけど」
大きなブルーのエコバックは、百合香が波留に贈ったものだ。毎回自分で荷物を持とうとする波留のために、せめて荷物が持ちやすいようにと、持ち手がしっかりしたエコバックをプレゼントしたのだ。
そのエコバックからゴロゴロと、玉ねぎが何個か転がり出てきた。ああ、と百合香は顔をしかめる。そこ、せっかくケンタローがきれいにしてくれた場所なのに。
「い、今のは……誰だ」
「へ?」
「誰かと、今、話をしていただろう。電話か何かで」
「いや、別に電話なんてしてないけど……」
頭の上にハテナが浮かぶ百合香に反し、波留はなぜか顔面蒼白。信じられないものでも見るような瞳で百合香を見下ろしている。
でも、そんな瞳で見られたところで百合香には心当たりがない。電話なんて別に誰とも……ん?
「ケンタロー?」
百合香がケンタローを指さすと、波留は訝しげに小首をかしげた。
「ケンタロー……?」
「ケンタロー!」
「ケンタロー……」
「ケンタロー!!」
しばし沈黙。
波留は買い物袋もそのままに、つかつかケンタローへ歩み寄ると、その小さなまんまるボディを両手でひょいと持ち上げた。
「こいつか……!」
「わあっ、ちょっとちょっと波留くん!」
波留に持ち上げられたケンタローは小さなモップの足を必死にばたつかせて抵抗する。慌ててケンタローを助けようと両手を伸ばした百合香だったが、波留はケンタローの身体を天井に向かって高々と抱え、親の仇でも見るような目でぎろりと厳しく睨みつけた。
「波留くん! 波留くん! 埃が落ちちゃう!」
「でもこいつが……」
「ケンタローはただ掃除してただけなの! 悪いのは全部私なの!」
「くっ……」
波留は悔しそうに唇を嚙みケンタローを振りかぶったが、百合香がもう一度高い声で「ケンタロー!」と叫ぶと、掲げた手をゆるゆると降ろしてケンタローを百合香に渡した。
百合香はケンタローを大事そうに両手で抱きかかえながら、慌てふためく彼を落ち着かせようと背中のスイッチを押してやる。彼女の腕の中で穏やかに眠り始めたケンタローを見て、波留は薄暗い眼差しをそっと廊下の隅へ流した。
「ごめん……波留くんの家電なのに、勝手に名前つけたりして……」
「いや……でも、どうしてケンタローなんだ?」
「え? 普通に好きな俳優さんの名前から採ったんだよ」
「…………」
それじゃあちょっと休憩しようねと、百合香はケンタローを物置の定位置へしまいこむ。
その後姿を見送る波留の瞳。それはさながら、憎きシンデレラを見つめる継母のそれに似ていた。
数日後、久々にケンタローを掃除という名の散歩に出そうと物置を開けた百合香は、彼の定位置に見慣れない箱が置いてあることに気がついた。
箱に書かれているのは『お掃除ロボット ル〇バ』。でも、そこに刻まれる四桁の数字はまさしく今年の2022。つまり最新型ということだ。
「ケンタロー……?」
か細く名前を呼んでみるものの、彼からの返事は聞こえない。
物置をくまなく探してみたがそれらしい姿はとうとうなく、百合香は最新型の箱を抱えて途方に暮れてしまった。
「ケンタローが気になるか?」
「波留くん……」
百合香の手からロボット掃除機の箱を取り上げた波留は、その中から新品ピカピカの新しいル〇バを取り出した。傷一つないおしゃれなボディ。ラグを軽々乗り越える健脚。自動でゴミを排出するための専用ゴミ箱までついている。
旧式のケンタローでは到底かなわない眩しいほどのハイスペックさ。でも、……いや、だからこそ、心によぎる一抹の寂しさはなんだろう。
「中原、落ち着いて聞いてくれ。ケンタローは壊れた」
「壊れた!?」
「だから俺は新しいロボット掃除機を買った。こいつの名前は――『ポチ』だ」
波留に名を呼ばれて喜ぶように、ポチはその拭き掃除もできるブラシの足を回転させた。
「ポチ」
「そう。ポチだ」
「ポチ……」
ケンタローが壊れた? この間まであんなに元気にゴミを掃き散らかしていたのに?
信じられない。でも現実に、この家からケンタローの気配は消え、代わりポチが清潔な床を守っている。まるで最初から自分がずっとこの家を掃除していたように、ケンタローが走っていた床を我が物顔でポチが行く。
(ケンタローは壊れてしまったんだ。もう、ケンタローには会えないんだ)
堪えようのない冷たい風が百合香の心を吹き抜けて、ケンタローとの思い出の日々をわびしく思い起こさせる。失敗ばかりのケンタロー。段差でよく止まるケンタロー。でも、いつもとっても一生懸命で、頑張っていたケンタロー。
(ありがとう、ケンタロー……)
最後に百合香の心を掃除して、ケンタローは消えていった。百合香はケンタローの丸い背中に心の中で大きく手を振ると、新しい同居人となったポチの頭をひと撫でした。
*
「さぁて、今日もお掃除しようかね~」
引き出しを開けた椎名が、お掃除ロボットを床へと放つ。
椎名家のダイニングチェアに腰かけ、何気なくその姿を眺めていた百合香は、ある違和感に気がついた。
コードに引っかかる黒いボディ。
ラグの段差を乗り越えられずばたつく無力な足。
行き先を見失いその場でぐるぐる回転する残念な目。
壁に向かってエンドレスに頭突きを繰り返すかわいそうな頭。
通った後に点々と残る、ヘンゼルとグレーテルが如きパンくず。
「ケン……タロー……?」
おそるおそる立ち上がり、その身体を抱き上げようとしたとき、廊下から駆け込んできた波留が一足先にル〇バの身体を取り上げた。きょとんとする椎名を無視して、波留はル〇バを再び引き出しへと押し込める。
「待って波留くん! その子、まさか……ケンタローなの……?」
「…………」
「でも、なんで……あのとき確かに、ケンタローは壊れたって……」
「…………」
追いすがる百合香に背を向けて、波留は唇を噛みしめる。
そして伏せたまぶたをゆっくり持ち上げると、聞こえないほど小さな声で「悪かった」と低く言った。
「どうしても自分の中で……ケンタローへの折り合いがつけられなくて」
「……ル〇バだよ?」
「わかってる。でも、たとえただのル〇バでも、俺はどうしても嫌だったんだ。中原が俺の家で、あんな……親しそうに男の名を呼ぶのは」
電源が入ったままなのだろうケンタローが、引き出しの中でじたばたと暴れる音が聞こえる。
波留の言っている言葉の意味が、百合香にはまったくわからなかった。ただ波留が、自分でも持て余してしまうほどの強い感情を持って、ケンタローを椎名の家へ預けたことだけはわかる。ケンタローは壊れたのだと、百合香に嘘までついて。
「……わかったよ、波留くん」
実際はまったくわからなかったが、わかったことにしておいた。
「ケンタローは椎名くんの家の子になったんだね。本当に壊れて、捨てられちゃったわけじゃなかっただけでも、私は嬉しいよ」
「中原……」
「波留くんの家にはポチがいるもんね。いつまでもケンタローのことを引きずってたら、ポチがかわいそうだし」
「……えーっと、返したほうがいい? ル〇バ」
「いや、いいよ! ケンタローはもう椎名くんの家族なんだから!」
ガタガタ動く引き出しを開け、百合香はケンタローを取り出す。背中のボタンをそっと押してから、椎名の腕へと手渡した。
「ケンタローをよろしくね、椎名くん」
椎名はこのとき、この流れでよろしくされるのめちゃくちゃ嫌だな、という顔をした。なんなら「ヤだよ」と声に出す寸前だった。
だが、波留の瞳が黙って受け入れろと無言の圧を送ってきていたので、彼は仕方なく押し黙ると静かにケンタローを受け取った。
大団円だと言わんばかりに、波留と百合香は顔を見合わせにこにこ平和に笑っている。椎名がじっと波留のほうを眺めていると、切れ長の瞳がもう一度じろと睨んできた。余計なこと、言うなよ。
軽く肩をすくめながら、椎名はため息交じりにケンタローへ目を落とす。一組の男女をかきまわした魅惑の黒い傷ありボディに、ひどく疲れた椎名の顔が左右に広がって映っている。
(ル〇バに名前を付ける心理も、ル〇バにやきもちを焼く心境も、俺にはさっぱりわかんねえよ!)
おわり
・三人称
・本当にコメディです。ごめん
*
波留の家の家電はそのほとんどが新品である。
冷蔵庫、テレビ、洗濯機、食洗機。どれもこれも、揃いも揃ってここ数か月以内に製造されたものばかり。この事実に気づいたとき、百合香は「定期的に家電をぜんぶ買い替える癖でもあるのかな」と訝しく思ったものだった。
だが、そんなニューフェイス揃いの家電の中で、ひとつだけ仲間はずれがいる。
ロボット掃除機、ル〇バ。
まん丸フォルムに黒いボディ、ボタンを押すだけで勝手に部屋を掃除してくれるこの家電は、長い間ずっと百合香の憧れだった。家電量販店の掃除機コーナーで彼の姿を見かけるたびに、百合香は目をきらきらとさせてその雄姿に焦がれてきたのだ。
(これがル〇バ。ずっと欲しくて、でも高くて買えなかった、憧れの全自動ロボット掃除機!)
ところが波留家のロボット掃除機は、百合香の大きな期待に反し、若干ポンコツであった。
まず、コードに引っかかる。場合によってはラグの段差でも足をとられ、その場をぐるぐる回ったり、壁に延々と頭突きを繰り返したりする。吸引力も若干寂しく、彼が通った後にちらほらと埃が残るのも珍しくない。
そして何より、部屋の隅だ。彼の形状上仕方がないのかもしれないが、部屋の隅に追い詰められたゴミはまず放置と見ていいだろう。
それもこれも、どうやら最新式のル〇バであれば改善される問題らしい。
(この子はちょっと古い子だから、なかなか頑張れないのかな)
ソファの上に両足をたたみ、働く彼を見守りながら、百合香はひとりで胸をぽかぽかと温めていた。例えるなら、幼稚園児の運動会を眺めるような心地だろうか。
旧型なりにせっせと働くロボット掃除機の姿は、百合香の疲れた心に勇気と癒しの風を送り込んだ。彼女はいつしかロボット掃除機に『ケンタロー』という名前を与え、本物のペットの如く可愛がるようになっていった。
その日もいつものように、ケンタローは百合香の指示でせっせと床を掃除していた。
のろのろトロトロと動き回るケンタローを追いかけながら、百合香は何が面白いのか、にこにこにこにこ笑っている。
「あっ、こら、ケンタロー。だめだって……もう、しょうがないなあ。ケンタローは私がいないとだめなんだから」
例の如くコードに絡まり足を取られているケンタローを、優しく抱えてなでなでしてから広い床へ降ろしてやる。
再び元気に掃除を始めたケンタローを眺めていると、不意に廊下からドサ、と何かの落ちる音がした。
「波留くん」
「…………」
「おかえり。どうしたの? 買い物袋落ちてるけど」
大きなブルーのエコバックは、百合香が波留に贈ったものだ。毎回自分で荷物を持とうとする波留のために、せめて荷物が持ちやすいようにと、持ち手がしっかりしたエコバックをプレゼントしたのだ。
そのエコバックからゴロゴロと、玉ねぎが何個か転がり出てきた。ああ、と百合香は顔をしかめる。そこ、せっかくケンタローがきれいにしてくれた場所なのに。
「い、今のは……誰だ」
「へ?」
「誰かと、今、話をしていただろう。電話か何かで」
「いや、別に電話なんてしてないけど……」
頭の上にハテナが浮かぶ百合香に反し、波留はなぜか顔面蒼白。信じられないものでも見るような瞳で百合香を見下ろしている。
でも、そんな瞳で見られたところで百合香には心当たりがない。電話なんて別に誰とも……ん?
「ケンタロー?」
百合香がケンタローを指さすと、波留は訝しげに小首をかしげた。
「ケンタロー……?」
「ケンタロー!」
「ケンタロー……」
「ケンタロー!!」
しばし沈黙。
波留は買い物袋もそのままに、つかつかケンタローへ歩み寄ると、その小さなまんまるボディを両手でひょいと持ち上げた。
「こいつか……!」
「わあっ、ちょっとちょっと波留くん!」
波留に持ち上げられたケンタローは小さなモップの足を必死にばたつかせて抵抗する。慌ててケンタローを助けようと両手を伸ばした百合香だったが、波留はケンタローの身体を天井に向かって高々と抱え、親の仇でも見るような目でぎろりと厳しく睨みつけた。
「波留くん! 波留くん! 埃が落ちちゃう!」
「でもこいつが……」
「ケンタローはただ掃除してただけなの! 悪いのは全部私なの!」
「くっ……」
波留は悔しそうに唇を嚙みケンタローを振りかぶったが、百合香がもう一度高い声で「ケンタロー!」と叫ぶと、掲げた手をゆるゆると降ろしてケンタローを百合香に渡した。
百合香はケンタローを大事そうに両手で抱きかかえながら、慌てふためく彼を落ち着かせようと背中のスイッチを押してやる。彼女の腕の中で穏やかに眠り始めたケンタローを見て、波留は薄暗い眼差しをそっと廊下の隅へ流した。
「ごめん……波留くんの家電なのに、勝手に名前つけたりして……」
「いや……でも、どうしてケンタローなんだ?」
「え? 普通に好きな俳優さんの名前から採ったんだよ」
「…………」
それじゃあちょっと休憩しようねと、百合香はケンタローを物置の定位置へしまいこむ。
その後姿を見送る波留の瞳。それはさながら、憎きシンデレラを見つめる継母のそれに似ていた。
数日後、久々にケンタローを掃除という名の散歩に出そうと物置を開けた百合香は、彼の定位置に見慣れない箱が置いてあることに気がついた。
箱に書かれているのは『お掃除ロボット ル〇バ』。でも、そこに刻まれる四桁の数字はまさしく今年の2022。つまり最新型ということだ。
「ケンタロー……?」
か細く名前を呼んでみるものの、彼からの返事は聞こえない。
物置をくまなく探してみたがそれらしい姿はとうとうなく、百合香は最新型の箱を抱えて途方に暮れてしまった。
「ケンタローが気になるか?」
「波留くん……」
百合香の手からロボット掃除機の箱を取り上げた波留は、その中から新品ピカピカの新しいル〇バを取り出した。傷一つないおしゃれなボディ。ラグを軽々乗り越える健脚。自動でゴミを排出するための専用ゴミ箱までついている。
旧式のケンタローでは到底かなわない眩しいほどのハイスペックさ。でも、……いや、だからこそ、心によぎる一抹の寂しさはなんだろう。
「中原、落ち着いて聞いてくれ。ケンタローは壊れた」
「壊れた!?」
「だから俺は新しいロボット掃除機を買った。こいつの名前は――『ポチ』だ」
波留に名を呼ばれて喜ぶように、ポチはその拭き掃除もできるブラシの足を回転させた。
「ポチ」
「そう。ポチだ」
「ポチ……」
ケンタローが壊れた? この間まであんなに元気にゴミを掃き散らかしていたのに?
信じられない。でも現実に、この家からケンタローの気配は消え、代わりポチが清潔な床を守っている。まるで最初から自分がずっとこの家を掃除していたように、ケンタローが走っていた床を我が物顔でポチが行く。
(ケンタローは壊れてしまったんだ。もう、ケンタローには会えないんだ)
堪えようのない冷たい風が百合香の心を吹き抜けて、ケンタローとの思い出の日々をわびしく思い起こさせる。失敗ばかりのケンタロー。段差でよく止まるケンタロー。でも、いつもとっても一生懸命で、頑張っていたケンタロー。
(ありがとう、ケンタロー……)
最後に百合香の心を掃除して、ケンタローは消えていった。百合香はケンタローの丸い背中に心の中で大きく手を振ると、新しい同居人となったポチの頭をひと撫でした。
*
「さぁて、今日もお掃除しようかね~」
引き出しを開けた椎名が、お掃除ロボットを床へと放つ。
椎名家のダイニングチェアに腰かけ、何気なくその姿を眺めていた百合香は、ある違和感に気がついた。
コードに引っかかる黒いボディ。
ラグの段差を乗り越えられずばたつく無力な足。
行き先を見失いその場でぐるぐる回転する残念な目。
壁に向かってエンドレスに頭突きを繰り返すかわいそうな頭。
通った後に点々と残る、ヘンゼルとグレーテルが如きパンくず。
「ケン……タロー……?」
おそるおそる立ち上がり、その身体を抱き上げようとしたとき、廊下から駆け込んできた波留が一足先にル〇バの身体を取り上げた。きょとんとする椎名を無視して、波留はル〇バを再び引き出しへと押し込める。
「待って波留くん! その子、まさか……ケンタローなの……?」
「…………」
「でも、なんで……あのとき確かに、ケンタローは壊れたって……」
「…………」
追いすがる百合香に背を向けて、波留は唇を噛みしめる。
そして伏せたまぶたをゆっくり持ち上げると、聞こえないほど小さな声で「悪かった」と低く言った。
「どうしても自分の中で……ケンタローへの折り合いがつけられなくて」
「……ル〇バだよ?」
「わかってる。でも、たとえただのル〇バでも、俺はどうしても嫌だったんだ。中原が俺の家で、あんな……親しそうに男の名を呼ぶのは」
電源が入ったままなのだろうケンタローが、引き出しの中でじたばたと暴れる音が聞こえる。
波留の言っている言葉の意味が、百合香にはまったくわからなかった。ただ波留が、自分でも持て余してしまうほどの強い感情を持って、ケンタローを椎名の家へ預けたことだけはわかる。ケンタローは壊れたのだと、百合香に嘘までついて。
「……わかったよ、波留くん」
実際はまったくわからなかったが、わかったことにしておいた。
「ケンタローは椎名くんの家の子になったんだね。本当に壊れて、捨てられちゃったわけじゃなかっただけでも、私は嬉しいよ」
「中原……」
「波留くんの家にはポチがいるもんね。いつまでもケンタローのことを引きずってたら、ポチがかわいそうだし」
「……えーっと、返したほうがいい? ル〇バ」
「いや、いいよ! ケンタローはもう椎名くんの家族なんだから!」
ガタガタ動く引き出しを開け、百合香はケンタローを取り出す。背中のボタンをそっと押してから、椎名の腕へと手渡した。
「ケンタローをよろしくね、椎名くん」
椎名はこのとき、この流れでよろしくされるのめちゃくちゃ嫌だな、という顔をした。なんなら「ヤだよ」と声に出す寸前だった。
だが、波留の瞳が黙って受け入れろと無言の圧を送ってきていたので、彼は仕方なく押し黙ると静かにケンタローを受け取った。
大団円だと言わんばかりに、波留と百合香は顔を見合わせにこにこ平和に笑っている。椎名がじっと波留のほうを眺めていると、切れ長の瞳がもう一度じろと睨んできた。余計なこと、言うなよ。
軽く肩をすくめながら、椎名はため息交じりにケンタローへ目を落とす。一組の男女をかきまわした魅惑の黒い傷ありボディに、ひどく疲れた椎名の顔が左右に広がって映っている。
(ル〇バに名前を付ける心理も、ル〇バにやきもちを焼く心境も、俺にはさっぱりわかんねえよ!)
おわり