幸せでいるための秘密

桂さんと夏

・本編第十二章の話(桂と美術館デートの最中)
・一人称百合香視点
・本編からカットしたシーン。わがままボンボン桂さん。





「暑い」

 病院の玄関を出てすぐ、桂さんは不機嫌丸出しでぼやいた。

 万年空調の効いている病室の中にいた人だ。外の世界がどれほど暑くなっていたかも知らずにいたらしい。

「もう夏ですよ」

「まだ七月でしょ」

「七月は夏です」

「こんなに暑かったっけ? 冗談だろ……」

 入院着以外の桂さんを見るのは、実は今日が初めてだ。桂さんの私服は全体的にぶかぶかで、彼らしくないカジュアルな印象に少しそわそわしてしまう。

 これは後から知ったことだけど、桂さんは病気になってから急激に痩せてしまったらしい。確かに身長のわりに、身体が細いというか薄いというか……樹くんの筋肉質なボディとはかなり違った印象を受ける。

「日傘、使いますか?」

 私は鞄から折り畳みの日傘を取り出して、桂さんの前でぱっと広げて見せた。黒地にシンプルなレースのついたUVカットばっちりの日傘は、中に入るだけで体感温度をぐっと下げてくれる。

 どうぞと手渡した日傘を、桂さんは遠慮なく受け取った。レースの日傘が似合ってしまうのがちょっとおかしい。昔読んだ小説にレースの傘を差す天使の描写があったけれど、ちょうどこんな感じだろうか。

 笑いを嚙み殺す私の頭上に、レースの影が覆いかぶさる。桂さんは私に傘を差しながら、

「ほら」

 と自分の傘を持つ腕を私へ向けた。

「え?」

「腕、ちゃんと組んで」

「……へ?」

「へ、じゃないよ。こんな女物の傘、僕一人で使うわけにいかないでしょ。お前のために差している風を装ってくれないと、恥ずかしくて外なんて出られないよ」

 男性の日傘ってそんなに抵抗あるものだろうか。いや、この日傘のデザインがちょっとガーリーすぎるから?

 桂さんって浮世離れしたイメージが強かったけど、人の目が気になるという意外な一面もあるようだ。病室の仲じゃわからないことが、外に出ると次々明らかになって、少し面白い。

 いずれにしろ、私に腕をぐいぐいと寄せて腕組み待ちをする桂さん。でも私だって彼氏がいる身で、他の男性の腕にやすやすと飛びつくわけにはいかない。

 まごまごする私にしびれを切らしたのか、桂さんは長いまつげを伏せると、

「お前が腕を組んでくれるまで歩かない」

 と、つーんと顔を逸らしてうそぶく。

「だ、駄々っ子ですか」

「なんとでも言って」

「いい大人が格好悪いですよ」

「逆だよ。格好つけるために言ってるんだ」

 え、そうなの?

 でも、これは完全にスーパーの床に転がってお菓子をねだる幼児のそれだ。桂さんがこのまま地面で大の字に寝転がったりしたら、私はもう共感性羞恥で立っていられなくなるかもしれない。

 仕方なく必死に考えた結果、私は桂さんのシャツの袖を指先できゅっと軽く握った。

「これで……許してもらえませんか」

 私にできるぎりぎりの譲歩。

 正直これでもちょっと恥ずかしいくらい。

 桂さんは私の手を見、それから顔を覗き込むと、

「及第点かな」

 と笑ってゆったりと歩き始めた。

 ……なんだか、うまく丸め込まれてしまったような気がする。





「暑い」

 この言葉、もう何回聞いただろう。

「暑い。ねえ、暑い」

「あんまり暑い暑い言ってると、本当に暑くなってきちゃいますよ」

「暑くなってくるんじゃなくて、僕はすでに暑いんだ。あー、暑い暑い暑い……」

 いい加減、ちょっと鬱陶しくなってきた。だって桂さんは、

「じゃあ、少し休んで水を飲みますか?」

 と私が提案しても、

「飲まない」

 絶対にこの返事。

 こんなにだらだら汗を流して、はあはあ口で息をしているのに、頑ななまでに水を飲まないし木陰で休む気もないらしい。

「暑い」

 そのくせさっきから暑い暑いと、文句ばっかり言っている。

「それじゃ、今日はもう帰りますか?」

「……帰らない」

「だったら頑張って歩きましょう。それか、涼しいお店にちょっと寄るとか――」

 私の言葉がそこで途切れたのは、頭上を覆っていた日傘の影が突然離れていったからだ。すぐ傍の腕が私にぶつかる。ばさ、と日傘が地面へ落ちる。頭を支え、目を伏せて、苦しげに眉を寄せる桂さん。

「桂さん!」

 私は大慌てで桂さんの華奢な身体を支えると、木陰の下のベンチへ急いで彼を横たえた。桂さんは目を伏せたまま何か呟いているようだけど、唇が小さく動くばかりで声はほとんど聞こえない。

 私は傍の自販機で冷たい飲み物をたくさん買って、桂さんの首筋とわきの下に押し当てた。熱中症? 救急車を呼んだ方がいいのかな。やっぱり途中、無理やりにでも休ませるべきだったろうか。

「……ごめん」

「大丈夫ですよ。でもちゃんと水は飲んでくださいね」

「……水は、飲み過ぎると腎臓の負担になるから、僕はあまり……」

「そうだったんですか!? こんな暑いのに無茶ですよ」

 初めからそのことを知っていたなら、タクシーでもなんでも呼びつけたのに。悔やむ私にかぶりを振って、桂さんは重たい身体で起き上がろうとする。

「もういい。行こう」

「顔色よくないですよ。もう少し休みましょう」

「企画展は時間指定でしょ。遅れたら困るのはお前じゃないの」

「そんなの、またチケットを買いなおして違う日に行けばいいじゃないですか!」

 いい加減私もイライラしてきて、つい声が大きくなってしまう。どうしてこの人、自分のことを大事にしないの? 企画展より桂さんの身体の方がずっと大切に決まっているのに。

 苛立ちをぶつけるように声を上げてから、少し背中がひやりとした。ちょっと言い方がキツすぎたかな。気を悪くしただろうかと、おそるおそる表情を伺う――

「……また?」

 私の予想とは裏腹に、桂さんはきょとんと目を丸くしていた。不快そうなわけでも、拗ねているわけでもない。ただただ純粋な驚きの顔。

 戸惑いながら私が小さく頷くと、桂さんは少し俯き、ぱちぱちと瞬きをする。

「そう。……また、か」

 ふ、とかすかに緩む口元。

 うわずった吐息を唇から漏らし、桂さんは気が抜けたように笑っている。

「……どうしたんですか?」

「いや、別に」

 桂さんは首にあてていたペットボトルを手に取ると、力の入らない指でキャップを外しスポーツドリンクに口付けた。

 こくんと喉が上下して、少し気持ちも落ち着いたらしい。再び顔を上げた桂さんは、さっきまでとは打って変わった、ずいぶんすっきりとした表情で微笑んでいる。

「じゃあ、少し休んでいこうかな」

 ベンチの隣を軽く叩いて、ここへ座れと手が指図する。

 ほっと安堵のため息をついて隣に腰かけた私の顔を、桂さんは妙に優しい、穏やかな眼差しで見つめていた。



おわり


< 152 / 153 >

この作品をシェア

pagetop