幸せでいるための秘密
君と君とが幸せなら
・本編89~90ページ間の話(里野の処遇を波留がみんなに伝えた後)
・三人称椎名視点
・ほのぼのです。椎名の本心…?
*
百合香がダイニングチェアに腰かけたとき、椎名は意外そうに眉を上げた。彼の手にはビールを注いだコップがひとつ。百合香もまた、今日は珍しく甘めの缶チューハイを携えている。
「なに? 今夜は中原が晩酌に付き合ってくれるの?」
「うん」
百合香の手元でぷしゅ、とプルタブが開く。
少し飲みづらそうにしながら缶に口をつける百合香を、椎名は半ばまで伏せた瞳で静かに眺めている。テレビの消えた部屋の中。ダイニングのみを照らす灯り。耳をすませば時計の針がコチコチ動く音が聞こえる。
「なんかいいつまみあったかな……」
そう言って立ち上がろうとした椎名を遮るように、波留がその隣に腰を下ろした。テーブルにどさりと投げ出されたのは近所のコンビニのビニール袋だ。
袋の中にちらほら見えるのはチーズやスナック菓子、そして冷凍の枝豆。喜ぶというより怪訝な顔をして、椎名は波留を横目で見る。
「今度はなに? 波留が買ってきてくれたの?」
「ああ」
そっけない返事をしながら、波留は自分もエールビールの缶を開けた。彼と百合香は向かい合わせに座っているが、視線が絡む様子はない。第一、二人とも身体が椎名の方を向いている。
三人で酒を囲むテーブルは、もしかしたら初日以来だろうか。特に、波留はともかく百合香が一緒に飲んでいるのは珍しい。
「……もしかして、俺さあ」
頬杖をつく椎名。
枝豆が凍ったままだと気づいた波留が、袋を片手にキッチンへ立つ。
「ものすごく気遣われてる?」
その瞬間、唇についたチューハイを舐めながら、百合香が小さくはにかんだ。
恥ずかしそうに泳ぐ目線をあえて露骨に捕えてやりたくて、あちこちから百合香の顔を覗き込む。酒のせいか、わずかに赤く染まった頬を片手で隠しつつ、百合香はくすぐったそうに微笑んだ。
「こういう夜も、今後はなかなか無いだろうなと思ったら、なんか寂しくなっちゃって」
……ああ、そうか。
ひと月以上、当たり前のように三人一緒に過ごしていた。だからこれからも、この夜がずっと続いていくような気になっていたけれど。
里野彰良というストーカーの処遇が無事に決まってしまった今、二人が椎名の家で暮らす理由はもう何もない。むしろ彼らは――椎名自身がずっと望んでいたように――ごくありふれた恋人同士として、これから二人で手を取り合って人生を歩んでいくのだろう。
いつものビールが急に味気なく感じて、突然口が進まなくなる。仕方なくスナック菓子を開けたが、あまりのしょっぱさに続けて食べられる気がしない。
「俺は別に椎名に気なんて遣ってない」
「遣えよ」
「ただ、百合香が椎名のために何かしたいなら、今日だけは止めないでおこうと思っただけだ」
流水で解凍した枝豆を波留がざるにあげている。特段の盛りつけもないままどかっとテーブルに出されたそれは、椎名のよく知る波留らしい粗雑さで、なぜだか少し安心した。
「今日だけ、ねえ……」
背もたれに寄りかかりながら、考えるふりをする。本当は明日からのことで頭がいっぱいで、今日どうするかなんてなんにも思いつきそうにない。
でも、泣いても笑っても奇妙な三人の共同生活はこれが最後だ。どうせなら今日は、後悔しない夜を送りたい。
「……今日は真ん中で寝たい」
ぼそっとした、歯切れの悪い本音の言葉に、波留と百合香がきょとんとしたのがわかった。
「寝づらいぞ」
「別にいい」
「百合香の方に寄っていくなよ」
「今日だけは何やっても許してくれるんじゃなかったの?」
「過大解釈やめろ」
「だってさ。中原はどう思うー?」
「うーん……」
苦笑いする百合香を波留がじいっと眺めている。だめだぞ、と口で言ってやれば早いものを、波留は時々こうして目線で『察してほしい』オーラを放つことがある。よくないことだと思いつつ、指摘するタイミングを見つけられないままとうとう今日まで来てしまった。
「じゃあ、最後の夜は椎名くんが真ん中で」
百合香の言葉にわーいと喜ぶふりをしながら、頭に浮かぶのは明日の夜のことばかりだった。
二枚並んだマットレスに、互い違いにかけられたシーツ。
寝るのが早い百合香のために、リビングの光が当たらないよう衝立を二枚買った。やたら可愛い花模様の衝立を見たとき、百合香は「どうして布団を買ってこなかったんだろう」と言いたげな顔をしていたけど、理由は単純。三人でずっと一緒に寝ていたかったから。
「うわ、固っ」
「だから言っただろ」
横たわるほっぺたに編み込み状の跡がつく。よくまあ波留はこんなところで何日も我慢して寝ていたものだ。
(これも愛の成せる技かな)
基本他人に興味を持たないあの波留樹が立派なものだと心の中で拍手を送る。
いつものように百合香が右側へ、波留は彼女をちらちら見ながら左端へと横たわる。
真ん中にうつ伏せになりながら、椎名は首ごと隣を向いた。仰向けの百合香と目が合って、にこっ、と無邪気に微笑まれる。
なんともいえない気持ちになって、今度は反対側を向いてみた。頬杖をついてスマホを触っていた波留が、目元だけを椎名へ向ける。
(なんだこれ)
なんだか頬がむずむずする。
例えば将来、この二人の間に子どもが生まれたりなんかしたら、その子はきっとこんな風に両親に囲まれて眠るのだろう。
今より少しだけ年を取った二人が、いかにも穏やかな顔をして真ん中で眠る赤子をあやす。その姿を想像するだけで、胸の内から奇妙な感覚が沸き上がって止まらない。
(ああ、俺、こいつらの子どもになりたかったのかな)
「電気消すぞ」
結局どっちを向くこともできず、布団を抱いて仰向けになった。暗闇の先を睨みつけながら、頬のむずがゆさを必死に堪える。
「どうしたの?」
「うおっ」
暗闇の中から出てきた百合香の顔が想像よりもずっと近くて、格好悪い声を上げながらびくっと肩が震えてしまった。
椎名の動揺など露知らず、百合香は小さく微笑むと、
「すっごいほっぺが笑ってる」
と言って、弓なりの瞳に椎名の間抜けなにやにや笑顔を映して見せる。
(うわ)
俺の顔キモいなって気持ちと、それでも笑いが止まらない戸惑いと。
ついでに背後に横たわる波留が「なに百合香と楽しそうに喋ってんだ」とでも言いたげに放つ圧と。
四方八方を取り囲まれて、ふと我知らず椎名は気づく。なんか俺、今、ぽかぽかしてる。心も身体も温かくって、頬の緩みが止まらない。
「……なんでもない」
気の利いた言葉で笑いのひとつでも起こしたい気持ちはあったのだけど、結局なにも思いつかなくて中学生みたいにはにかんでしまった。
左隣には波留がいる。
右隣には百合香がいる。
二人の描く未来のビジョンにきっと椎名はいないだろう。でも、二人は変わらず幸せそうに微笑みあって生きていく。
「おやすみ、二人とも」
好きな人と好きな人が幸せなら、それが、きっと、俺の幸せ。
おわり
・三人称椎名視点
・ほのぼのです。椎名の本心…?
*
百合香がダイニングチェアに腰かけたとき、椎名は意外そうに眉を上げた。彼の手にはビールを注いだコップがひとつ。百合香もまた、今日は珍しく甘めの缶チューハイを携えている。
「なに? 今夜は中原が晩酌に付き合ってくれるの?」
「うん」
百合香の手元でぷしゅ、とプルタブが開く。
少し飲みづらそうにしながら缶に口をつける百合香を、椎名は半ばまで伏せた瞳で静かに眺めている。テレビの消えた部屋の中。ダイニングのみを照らす灯り。耳をすませば時計の針がコチコチ動く音が聞こえる。
「なんかいいつまみあったかな……」
そう言って立ち上がろうとした椎名を遮るように、波留がその隣に腰を下ろした。テーブルにどさりと投げ出されたのは近所のコンビニのビニール袋だ。
袋の中にちらほら見えるのはチーズやスナック菓子、そして冷凍の枝豆。喜ぶというより怪訝な顔をして、椎名は波留を横目で見る。
「今度はなに? 波留が買ってきてくれたの?」
「ああ」
そっけない返事をしながら、波留は自分もエールビールの缶を開けた。彼と百合香は向かい合わせに座っているが、視線が絡む様子はない。第一、二人とも身体が椎名の方を向いている。
三人で酒を囲むテーブルは、もしかしたら初日以来だろうか。特に、波留はともかく百合香が一緒に飲んでいるのは珍しい。
「……もしかして、俺さあ」
頬杖をつく椎名。
枝豆が凍ったままだと気づいた波留が、袋を片手にキッチンへ立つ。
「ものすごく気遣われてる?」
その瞬間、唇についたチューハイを舐めながら、百合香が小さくはにかんだ。
恥ずかしそうに泳ぐ目線をあえて露骨に捕えてやりたくて、あちこちから百合香の顔を覗き込む。酒のせいか、わずかに赤く染まった頬を片手で隠しつつ、百合香はくすぐったそうに微笑んだ。
「こういう夜も、今後はなかなか無いだろうなと思ったら、なんか寂しくなっちゃって」
……ああ、そうか。
ひと月以上、当たり前のように三人一緒に過ごしていた。だからこれからも、この夜がずっと続いていくような気になっていたけれど。
里野彰良というストーカーの処遇が無事に決まってしまった今、二人が椎名の家で暮らす理由はもう何もない。むしろ彼らは――椎名自身がずっと望んでいたように――ごくありふれた恋人同士として、これから二人で手を取り合って人生を歩んでいくのだろう。
いつものビールが急に味気なく感じて、突然口が進まなくなる。仕方なくスナック菓子を開けたが、あまりのしょっぱさに続けて食べられる気がしない。
「俺は別に椎名に気なんて遣ってない」
「遣えよ」
「ただ、百合香が椎名のために何かしたいなら、今日だけは止めないでおこうと思っただけだ」
流水で解凍した枝豆を波留がざるにあげている。特段の盛りつけもないままどかっとテーブルに出されたそれは、椎名のよく知る波留らしい粗雑さで、なぜだか少し安心した。
「今日だけ、ねえ……」
背もたれに寄りかかりながら、考えるふりをする。本当は明日からのことで頭がいっぱいで、今日どうするかなんてなんにも思いつきそうにない。
でも、泣いても笑っても奇妙な三人の共同生活はこれが最後だ。どうせなら今日は、後悔しない夜を送りたい。
「……今日は真ん中で寝たい」
ぼそっとした、歯切れの悪い本音の言葉に、波留と百合香がきょとんとしたのがわかった。
「寝づらいぞ」
「別にいい」
「百合香の方に寄っていくなよ」
「今日だけは何やっても許してくれるんじゃなかったの?」
「過大解釈やめろ」
「だってさ。中原はどう思うー?」
「うーん……」
苦笑いする百合香を波留がじいっと眺めている。だめだぞ、と口で言ってやれば早いものを、波留は時々こうして目線で『察してほしい』オーラを放つことがある。よくないことだと思いつつ、指摘するタイミングを見つけられないままとうとう今日まで来てしまった。
「じゃあ、最後の夜は椎名くんが真ん中で」
百合香の言葉にわーいと喜ぶふりをしながら、頭に浮かぶのは明日の夜のことばかりだった。
二枚並んだマットレスに、互い違いにかけられたシーツ。
寝るのが早い百合香のために、リビングの光が当たらないよう衝立を二枚買った。やたら可愛い花模様の衝立を見たとき、百合香は「どうして布団を買ってこなかったんだろう」と言いたげな顔をしていたけど、理由は単純。三人でずっと一緒に寝ていたかったから。
「うわ、固っ」
「だから言っただろ」
横たわるほっぺたに編み込み状の跡がつく。よくまあ波留はこんなところで何日も我慢して寝ていたものだ。
(これも愛の成せる技かな)
基本他人に興味を持たないあの波留樹が立派なものだと心の中で拍手を送る。
いつものように百合香が右側へ、波留は彼女をちらちら見ながら左端へと横たわる。
真ん中にうつ伏せになりながら、椎名は首ごと隣を向いた。仰向けの百合香と目が合って、にこっ、と無邪気に微笑まれる。
なんともいえない気持ちになって、今度は反対側を向いてみた。頬杖をついてスマホを触っていた波留が、目元だけを椎名へ向ける。
(なんだこれ)
なんだか頬がむずむずする。
例えば将来、この二人の間に子どもが生まれたりなんかしたら、その子はきっとこんな風に両親に囲まれて眠るのだろう。
今より少しだけ年を取った二人が、いかにも穏やかな顔をして真ん中で眠る赤子をあやす。その姿を想像するだけで、胸の内から奇妙な感覚が沸き上がって止まらない。
(ああ、俺、こいつらの子どもになりたかったのかな)
「電気消すぞ」
結局どっちを向くこともできず、布団を抱いて仰向けになった。暗闇の先を睨みつけながら、頬のむずがゆさを必死に堪える。
「どうしたの?」
「うおっ」
暗闇の中から出てきた百合香の顔が想像よりもずっと近くて、格好悪い声を上げながらびくっと肩が震えてしまった。
椎名の動揺など露知らず、百合香は小さく微笑むと、
「すっごいほっぺが笑ってる」
と言って、弓なりの瞳に椎名の間抜けなにやにや笑顔を映して見せる。
(うわ)
俺の顔キモいなって気持ちと、それでも笑いが止まらない戸惑いと。
ついでに背後に横たわる波留が「なに百合香と楽しそうに喋ってんだ」とでも言いたげに放つ圧と。
四方八方を取り囲まれて、ふと我知らず椎名は気づく。なんか俺、今、ぽかぽかしてる。心も身体も温かくって、頬の緩みが止まらない。
「……なんでもない」
気の利いた言葉で笑いのひとつでも起こしたい気持ちはあったのだけど、結局なにも思いつかなくて中学生みたいにはにかんでしまった。
左隣には波留がいる。
右隣には百合香がいる。
二人の描く未来のビジョンにきっと椎名はいないだろう。でも、二人は変わらず幸せそうに微笑みあって生きていく。
「おやすみ、二人とも」
好きな人と好きな人が幸せなら、それが、きっと、俺の幸せ。
おわり