幸せでいるための秘密
✳︎


「いかがですか!? ここ、いいお部屋でしょう!」

 ドカバキゴトン! 痛ぇっ、何しやがるこのクソ女! キーッ黙れ浮気男! あんたなんか殺してやる! うわっ、包丁はやめろ! 助けてーっ!

「…………」



「ほら見てくださいこの景色! 素晴らしいと思いませんか!?」

 ワンワンワンワンワンワン! ああっ見ろ! 田中さんの家のピットブルが脱走したぞ! みんな逃げろ! また嚙み殺されるぞーっ!

「…………」



「こちらのお部屋はどうですか!? この家賃は破格ですよ!」

 ピー。えー、どうもおはこんばんにちは! 今日はねー、えー、皆さん待望の! 歌ってみたを! やってみたいと思います! ジャジャジャジャジャンボエエー!

「…………」





「どうなってるのこの地域」

 治安が完全に死んでいる。

 いや、痴話喧嘩と歌い手はまだ仕方ない。でもピットブルはだめでしょう、ピットブルは。世界で一番死亡事故が多い犬だよ。脱走とか絶対させちゃいけない犬種だよ。

「また嚙み殺されるって言ってたけど、もうすでに誰か噛み殺されたの?」

「いや……そういうニュースは聞いていないが……」

 カフェテラスのテーブルに両肘を突き、難しい顔で黙り込んでいた波留くんが、コーヒー越しに深刻そうな眼差しを私へ向ける。

「中原、聞いてくれ」

「うん」

「俺は中原に、痴話げんかで包丁を持ち出す女がいるアパートとか、ピットブルが頻繁に脱走する地域とか、壁が薄いのも気にせず大声でカラオケを歌う隣人がいるところには住んでほしくない」

「う、うん」

 立ち上がった波留くんが、私に向かって深々と頭を下げた。

「頼む。どうか俺の家で暮らしてほしい」

「わ、わあっ、やめてよ! そんなのされたら私の方から頼みづらくなるから!」

 慌てて立ち上がった私を見、波留くんは心からほっとしたように眉尻を下げた。周りのお客さんが私たちを見ながらひそひそ小声で話している。私はできるだけ笑顔を作りながら、波留くんにもう一度座るように促した。

「じゃあ、今日の物件は全部なしということでいいな?」

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