幸せでいるための秘密
「よう。その、久しぶり」

「…………」

「ちょっと話したいことがあって。この駅をよく使ってると思ったから、待ってたんだ」

 へらへら笑って近づいてきた彰良から逃げるよう、無意識のうちに足が一歩後ずさりする。彰良もそれに気づいたようだけど、案の定気にせず無遠慮に近づいてきた。

「悪いけど、私は話すことなんてないから」

 この言葉でようやく足が止まる。

 ぎゅっと真ん中に寄った眉間が、彰良の不快を如実に物語っている。

「ちょっとだけでいいんだよ。すぐ終わる」

「じゃあここで言って」

「それはちょっと、そういう話じゃないし」

「どういう話なの」

「どうって、だから、あれだよ」

 ぼりぼりと乱雑に頭を掻いてから、彰良は恥ずかしそうに言った。

「仲直りしようと思って」

 ……うん?

 なんだって? 私の聞き間違い?

 今、彰良の口から信じられない言葉が聞こえたと思ったんだけど?

 理解の範疇を超えた台詞に私が呆然としていると、彰良はようやく私の隣に人がいることに気づいたようだ。

「それ、誰」

 なんて横柄な訊ね方をする彰良に、波留くんは無言のまま帽子のつばを軽く持ち上げる。

 げっ、と声こそ出なかったけど、彰良は明らかにそういう表情をした。いかにも嫌な奴に遭ったような、見たくないものを見てしまったような、そんな顔。

 そして波留くんは微塵も表情を変えないまま、ただ静かに彰良を見下ろしている。

「……悪いけど私、本当に話すことはないと思ってるから」

 私は波留くんの腕を掴むと、そのまままっすぐ彰良の横を通り過ぎた。おい、と呼び止める声がしたけど、奥歯をきつく食いしばって正面だけを睨みつける。

「諦めないからな」

 雑踏の合間を縫って、彰良の声が背中に聞こえた。無視してひたすら駅へと進む、私の両足が震えている。手もそうだ。こんなことで動揺なんてしたくないのに、身体ばかりがさっきから震えて止まらない。

 隠し切れない私の動揺は、腕を掴む指先を通じて波留くんにも伝わったのだろう。掴んだ腕が離れたと思うと、入れ替わりに私の手のひらが包み込むように握りしめられる。

「大丈夫」

 人ごみのひどい駅の中で、波留くんの声だけが直接囁かれたみたいにぽんと耳に飛び込んできた。

 思わず隣を見上げると、真剣な眼差しの波留くんと目が合った。それだけで、心に巣食う緊張の糸が少しだけ緩んだ気がした。




 でも、これが地獄の始まりだったなんて、この時の私には知る由もなかった。
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