幸せでいるための秘密
*
その日は彰良が夜勤の日だったから、私もいつもより楽な気持ちで過ごしていた。
おじいちゃん社長に退勤の挨拶をして、鞄を持って会社を出る。ちょうど暮れ始めたばかりの太陽は梅雨入り目前の曇天に隠れ、雲の合間からわずかな光を差し込むだけに留まっている。
(そうだ。帰りにお茶屋さんへ寄って、ルイボスティーの茶葉を買ってこよう)
あの日以来、家で仕事をこなす波留くんに私がルイボスティーを淹れるのが、二人の間のちょっとした定番になっていた。波留くんはカップを受け取るたびに、はちみつみたいに溶けそうな笑顔でいつもお礼を言ってくれる。その笑顔を見ているだけで、何か私にできることはないか、一生懸命考えている自分がいる。
足取り軽く歩道を歩いていた私は、向かいから歩いてくる人影に足を止めた。人波の中から見え隠れする陰鬱な顔を、彰良と見間違えてしまったからだ。
(いや、彰良は今日は夜勤の日だから、こんなところにはいないはず……)
騒ぐ心臓を落ち着かせながら、もう一度人影を確認する。パーカーのフードを目深にかぶり、両手をポケットに入れた男の人。逃げるように左へ避けると、軽く顔を持ち上げた男が私を見つけてニィと笑う。
「見つけた」
全身から一気に血の気が引き、私は危うく鞄を取り落としそうになった。
彰良はまっすぐに私を見つめたまま大股で距離を縮めてくる。私は慌てて背中を向けて、元来た道を小走りに引き返した。どうして彰良が。誰かと当番を代わったのかな。頭の中がぐちゃぐちゃに乱れ、走る足がもつれそうになる。
すれ違う人が怪訝そうに私を見ている。誰か助けてと叫んでしまおうかと思ったけど、そんなことしたって遠巻きに見られるのが関の山だ。
「百合香、待てよっ」
走って逃げるには会社は遠い。
彰良はどんどん近づいてくる。
(もう無理、逃げきれない!)
焦った私は歩道の途中で開けた道へと転がり込んだ。西洋のお屋敷みたいに整えられたお庭の奥に、ガラスの自動ドアのついた大きな白い建物が見える。
何の施設かもわからなかったけど、もう考えている時間もなくて、私は無我夢中に走って建物の中に飛び込んだ。そのとき、
ドンッ――
その日は彰良が夜勤の日だったから、私もいつもより楽な気持ちで過ごしていた。
おじいちゃん社長に退勤の挨拶をして、鞄を持って会社を出る。ちょうど暮れ始めたばかりの太陽は梅雨入り目前の曇天に隠れ、雲の合間からわずかな光を差し込むだけに留まっている。
(そうだ。帰りにお茶屋さんへ寄って、ルイボスティーの茶葉を買ってこよう)
あの日以来、家で仕事をこなす波留くんに私がルイボスティーを淹れるのが、二人の間のちょっとした定番になっていた。波留くんはカップを受け取るたびに、はちみつみたいに溶けそうな笑顔でいつもお礼を言ってくれる。その笑顔を見ているだけで、何か私にできることはないか、一生懸命考えている自分がいる。
足取り軽く歩道を歩いていた私は、向かいから歩いてくる人影に足を止めた。人波の中から見え隠れする陰鬱な顔を、彰良と見間違えてしまったからだ。
(いや、彰良は今日は夜勤の日だから、こんなところにはいないはず……)
騒ぐ心臓を落ち着かせながら、もう一度人影を確認する。パーカーのフードを目深にかぶり、両手をポケットに入れた男の人。逃げるように左へ避けると、軽く顔を持ち上げた男が私を見つけてニィと笑う。
「見つけた」
全身から一気に血の気が引き、私は危うく鞄を取り落としそうになった。
彰良はまっすぐに私を見つめたまま大股で距離を縮めてくる。私は慌てて背中を向けて、元来た道を小走りに引き返した。どうして彰良が。誰かと当番を代わったのかな。頭の中がぐちゃぐちゃに乱れ、走る足がもつれそうになる。
すれ違う人が怪訝そうに私を見ている。誰か助けてと叫んでしまおうかと思ったけど、そんなことしたって遠巻きに見られるのが関の山だ。
「百合香、待てよっ」
走って逃げるには会社は遠い。
彰良はどんどん近づいてくる。
(もう無理、逃げきれない!)
焦った私は歩道の途中で開けた道へと転がり込んだ。西洋のお屋敷みたいに整えられたお庭の奥に、ガラスの自動ドアのついた大きな白い建物が見える。
何の施設かもわからなかったけど、もう考えている時間もなくて、私は無我夢中に走って建物の中に飛び込んだ。そのとき、
ドンッ――