幸せでいるための秘密
 ――天使にぶつかった、と。

 そう思ったのは、決して大袈裟な表現じゃない。

 色素の薄い白い肌、折れそうなほど華奢な身体、上下揃いの真っ白な服に、長い前髪の合間から見える《《けぶる》》ような濃いまつげ。

 天使の彫刻がそのまま大人になったような姿に、私は自分の状況も忘れて一瞬で目を奪われてしまった。なんて綺麗な人だろう。透明感という言葉に人の形を与えたならば、きっとこんな姿になるはずだ。

「っと」

 よろけて柱に手をついたその人は、小さく唇を開いたまま重たげに頭を押さえた。私は息も絶え絶えのまま、慌てて彼の身体を支える。

「すみません、ぶつかってしまって! 大丈夫ですか?」

「僕は平気」

 すっと背筋を伸ばした天使は、私より背が高い男の子……いや、男の人だった。

 間近で見ると浮世離れした存在感に圧倒される。ただ見下ろされているだけなのに、心の隅まで全部見透かされているみたいで、ぞくっとする。

「あの、どうなさいました?」

 声をかけてくれたのは奥のカウンターにいる白衣を着た女の人だった。カウンターの上のパネルには『諏訪邉(すわべ)記念病院 受付』の文字。ここは病院だったんだ、と気づくと同時に、天使の着ている真っ白な服が入院患者用のガウンだと理解する。

「えっと、すみません、ちょっと……」

 ストーカー化した元彼に追いかけられていて、とも言えずまごついていると、突然隣から腰をぐいと抱き寄せられた。

「僕の見舞客だよ。珍しいでしょ」

「ああ、そうでしたか。ではこちらにお名前を」

「後で紙とペンを持ってきて。部屋で書くから」

「しかし……」

「しつこいな。僕は時間が惜しいんだけど」

 華奢な見た目から想像もつかないような強い力で引き寄せられ、抵抗する間もなくエレベーターへ押し込まれる。慌てて振り返ろうとすると、自動ドアの向こうで彰良がまだ歩道をうろうろしている姿が見えた。背筋に冷汗。きっと、私が出てくるのを待っているに違いない。

 なんだかよくわからないけど、少なくとも病院の中にいれば、彰良の目からは逃れることができそうだ。

「あの、すみません。助けてくださってありがとうございます」

 上っていくエレベーターの中で、彼へおずおずと声をかける。

 彼は私へ横目を向けると「別に」とそっけなく言った。
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