幸せでいるための秘密
「中原は……俺の想定より荒れていた。あの夜は本当に里野を殺してやろうと思ったよ。心の傷は深く、回復には時間がかかりそうに見えた。だからそれまで、中原が俺に頼りやすい状況を維持する必要があると思った。言葉と態度と行動を尽くして、きみへの好意を徹底して伝えた。きみの存在が決して俺の負担ではないと、理解してもらう必要があったからだ」

 波留くんの優しさは、何から何まで過分だった。料理でも掃除でも、これまでひとりでやってきたことを、波留くんはすべて私から取り上げ何も言わずにこなしてしまった。

 気後れするほどの優しさの波に飲み込まれながら、私は波留くんの意図を探りかねていたように思う。彼の言葉を信じていいものか、自分で判断ができずにいた。

「はじめて中原の部屋に入ったとき、パソコンに不動産サイトが映っていたから焦ったよ。あれだけ尽くしてもきみの真面目さには敵わないのかと、正直なところ驚いた。普通これだけ尽くす男がいれば、たとえ付き合う気がなくても都合よく利用してやろうと考えないか?」

「ははは……」

 思わず乾いた笑いが漏れる。波留くんを利用するだなんて、そんな恐ろしいこと私にできるはずないでしょう。

「でも俺が見た限り、中原の心の傷は癒えたというにはほど遠い状況だった。家の中では遠くを見ながらよくため息を吐いていた。会社の同僚と深酒をして帰ってきたこともある。こんな状態で中原を一人にしたら、今度は里野より性質の悪い男が近づいてくるかもしれない。だから悪いと思ったが、引っ越しをする気がなくなるよう、アマチュアの劇団を雇ってちょっとした芝居を打ってもらった」

 包丁の飛ぶ痴話喧嘩、脱走するピットブル、壁を突き抜ける歌い手の声。

「芝居の内容は完全に任せたんだが、まさかあんな奇人変人の演技をされるとは思わなかったな」

「ピットブルを脱走させる田中さんなんて人は、本当は存在しないんだね……」

「そういうことだ。俺としては、中原が引っ越しを諦めさえしてくれれば理由は別になんでもよかった」

 どうか俺の家で暮らしてほしいと、頭まで下げる波留くんの姿を思い出す。

 私は何も知らなかったけど、あの一連のくだりはすべて予定調和だったというわけだ。
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