幸せでいるための秘密
第八章 夕凪
 ストーカーの件を会社に話したとき、電話の向こうで椅子のひっくり返る音がした。デスクの書類をあちこちへ散らかしながら、慌てふためく社長の姿が目に浮かぶ。

『どうしてもっと早く言ってくれなかったの!』

 子どもを叱る先生みたいな口調でそう言ってから、社長は私に休業の手続きについて教えてくれた。ストーカーの件が落ち着くまでは、仕事に来なくてもいいよということだ。

 でも、うちみたいな零細企業では、私ひとりが抜けただけでも結構な痛手になってしまう。社長と押し問答の末、私の気力が回復するよう一週間お休みをするという形で決着がついた。『ゆっくり休んでね』と穏やかに言われ、少し目頭が熱くなる。

(一週間のお休みか。長いなぁ)

 あまりにも唐突な長期休暇。当然だけど、持て余してしまう。

 大手を振って遊べるわけでもなく、そもそもそんなに遊びたい気持ちでもない。結局椎名くんの家でゴロゴロしていたら、気づけば二日も経ってしまっていた。

「おはよう」

「おはよ」

 寝ぐせでぼさぼさのみっともない姿を椎名くんに見られるのも慣れた。

 かすかに漂うコーヒーの香り。ふちに茶色い飲み跡のついたマグカップが、キッチンカウンターにぽつんとひとつ残されている。

 椎名くんの家は、波留くんの職場へは少し遠い。

 自然、ただでさえ早起きの波留くんは、今までよりもっと早朝に出勤していくことになる。彼はきっと、よだれをたらして眠る私を横目に暗い部屋で身支度をして、コーヒーを一杯だけ飲み干すと家を出ていったのだろう。

 この苦い香りは、波留くんの残り香だ。

(波留くん……)

 彼のことを思うと、胸が苦しくなる。

「今日も暇そうだね」

 私の前を横切った椎名くんが、マグカップを水ですすいで食洗機へ放り込んだ。何か飲むかと訊ねられて、私は自分で用意するからと首を振る。

「こんなに長いお休みなんて久しぶりだから、やることも特に思いつかなくて」

「まあ、そうだよね。里野のことを考えると、気軽に外にも出かけられないし」

 彰良への対処として具体的に何をしているのか、波留くんは教えてくれなかった。

 でも裏を返せば、何らかの行動はすでに起こしているということだ。怖い気持ちは少しだけあるけど、私には待つことしかできない。

「中原はさ、何かやりたかったことはないの?」

「やりたかったこと?」

「そう。今までの生活の中で、同居人に遠慮してできなかったこととか。何かあるでしょ、ひとつくらい」

 やりたかったけど、できなかったこと。

 彰良と一緒に住んでいる頃は、仕事と家事で毎日が忙殺されていた。やりたいことを考える暇もなく、やらなくちゃいけないことばかりが毎日重くのしかかっていたと思う。

 波留くんと二人の生活の中では、今度は逆にあらゆる家事が私の手から取り上げられた。それは、私にとっては嬉しいことである反面、一種の物足りなさのようなものを感じていた気がする。

「あ」

 ひとつ思いついた。

 でも、これって可能なの?

 ちらと椎名くんの表情を伺う。彼は私の顔をじっと見つめて、特に返事をするわけでもなく、ただ笑顔でうなずいた。
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