幸せでいるための秘密
「早く食べなよ。せっかく中原が作ってくれたんだから」

 波留くんは椎名くんのお椀をちらと見て、それから自分の煮物へとお箸を伸ばす。いかにも育ちのよさそうな丁寧な箸使いで、小さなれんこんが口元へと運ばれる。

 少ない咀嚼で飲み込んだ波留くんは、私のほうへ目を向けると、

「美味しい」

 と言って、ほんのかすかに微笑んだ。

 思わず漏れる安堵のため息。波留くんが作るお料理には及ばないかもしれないけど、この煮物は実家のお母さんから作り方を習った自信作だ。

(よかった。美味しいって言ってもらえた)

 安心したら空腹を思い出して、私も自分で作った料理に箸をつける。うん、悪くない。むしろ彰良と同棲していた頃より遥かに美味しく感じるのだから、人間って不思議なものだ。

「聞いたよ。お前、今まで中原に包丁すら握らせなかったんだって? こんなに料理上手なんだから、色々手伝ってもらえばよかったのに」

「……そうだな」

「俺も少し手伝ったけど、手際もかなり良かったよ。中原さえよければ、明日もお任せしようかなって思ってるんだけど」

 空っぽになったお皿を前に、椎名くんが満足そうに笑う。

 波留くんもすべてのお皿を丁寧に空にしてから、両手を合わせて「ごちそうさま」を言うと、

「あのな」

 いつもよりワントーン低い声で、滲み出す棘を隠さずに言った。

「今日はお前が迎えに来るなんて言うから、無理をして仕事を切り上げてきたんだ。明日はたぶんこの時間には帰れない」

「……あ、そう」

「俺の分はいいから、夕飯は二人で食べてくれ」

 立ち上がった波留くんが、空の食器を重ね始める。全部きれいに食べてある。でも、部屋の温度と私の心は凍りついたように冷たい。

 途中で私の顔を見た波留くんが、思い出したように小さな声でお礼を言った。私は慌ててかぶりを振り、

「食器そのままでいいよ。私やるから」

 と、波留くんの手から重ねたお皿を取り上げる。

 波留くんはもう一度お礼を繰り返し、それからふいと目を逸らすと、喉元のボタンを外しながら廊下の方へと去っていく。奥の部屋のドアがバタンと閉まる音がして、私はようやくお腹に溜まった冷たい吐息を吐き出した。

 どうしよう。

 ショックだ。

(思ったより……ぜんぜん、喜んでもらえなかった)

 いったい何がいけなかったんだろう。献立? 味付け? それとも仕事で疲れているんだから余計な気を遣わせるなってこと?

 あれこれ悩む私の手から、お皿がさっと奪い取られる。椎名くんは波留くんが消えた廊下の方へ目をやりながら、

「めんどくせえ男」

 と呆れた顔で毒づいた。
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