幸せでいるための秘密



 昨夜から降り始めた細雨はお昼を過ぎても止むことはなく、重苦しい暗雲が立ち並ぶビルに覆いかぶさっている。

 向こうに見えるのは桂さんがいる病院かな。もうずいぶんお見舞いに行けていないけど、彼はまだあの部屋に一人でいるのだろうか。

 今日は、一週間ぶりの出勤日。

 多大なご迷惑をおかけして、会社で浮いてしまわないかと少し心配していたけど、みんな今までと変わらない温かさで私を迎え入れてくれた。

「それじゃあ、帰ります。お疲れさまでした」

「うん。気をつけてね、百合香ちゃん」

 いつもの鞄を肩にかけ、おじいちゃん社長に挨拶する。私以外の社員たちも皆それぞれに仕事を終えて、他愛ない雑談をしながら帰りの支度を始めている。

(今日の夕飯は何にしようかな)

 ぼんやり考えながら曇天を見上げる。ここ最近、私は椎名くんの家のキッチンで好きなように料理をやらせてもらっていた。料理はやっぱりストレス発散になる。それに、常に家に誰かがいてくれるという安心感も、メンタルの維持にうまく繋がっているのだと思う。

 でもやっぱりあの日以来、私と波留くんはほんの少しだけぎこちない。

「う、わっ」

 ごちゃごちゃ考えながら階段を下りていたせいか、私は途中で段を踏み外すと危うく地面に転びそうになった。ビルの入り口にいつもの赤い車が停まっている。椎名くんはいつも、私が外で待たずに済むよう少し早めに迎えに来てくれるのだ。

 転びかけたところ、見られてたかな。恥ずかしい気持ちを横にやりつつ、椎名くんの車へ駆け寄る。

「椎名くん、おまた、せ……?」

 運転席を覗き込んだ私は、窓の向こうに見えるその顔に目を丸くした。なんで、とこぼしかけた言葉を、静かな圧力におされて飲み込む。

 ハンドルを握った波留くんは、それが当然のことみたいに、隣に座るよう私を顎で促した。
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