幸せでいるための秘密



 樹くんは――

 一生懸命『待て』をしている。

 こういうと恋人を犬扱いしているのかと言われてしまいそうだけど、実際私は時々樹くんが大型犬か何かに見える。椎名くんに茶化されたときは、私の方をちらと見やって振り上げたこぶしをそっと下ろす。私と視線が絡み合ったときに椎名くんがやってきたら、むっと険しい顔をしながらも渋々目線を逸らしていく。

 彼なりに精一杯の我慢をしてくれているというのが、見ているだけで手に取るようにわかるから少し面白い。そして、そのおあずけされている餌というのが私自身のことだと気づき、恥ずかしくなるところまでがワンセットだ。

 ほら、今も。

「百合香」

 囁くような声につられて顔を向けてみれば、切れ長の瞳を少しだけ下げた樹くんと目が合う。椎名くんはトイレへ立って、今このリビングは二人きり。

「すぐ戻ってくるよ」

「大丈夫」

 大きなビーズクッションを挟んで、肘と肘がぶつかりあう。一瞬だけ視線が絡み、トン、と触れるだけのキス。

 そしてまた再び前を向く。映画CMの銃撃戦が、派手なフラッシュで色づく頬を隠してくれる。

 ささいな、幸せ。

 たったこれだけで不思議なくらい満たされた気持ちになるのだから、私も単純な人間だ。

「ねえ、誰か共用メモに『トイレットペーパー』って入れといて……ん?」

 椎名くんの声と重なって響いた、けたたましいアラーム音。

 日曜朝のニュースの上に流れているのは、緊急地震速報の文字。震度は4、場所は北陸……と、その中に馴染んだ地名を見かけて目が覚める。

「新潟だって。中原、実家だよね?」

「うん。ちょっとお母さんに電話してみるよ」

「俺の部屋使っていいよ」

 椎名くんに一言お礼を告げて、スマホを片手に彼の私室へお邪魔した。カーテンの閉じられた薄暗い部屋には最新型のゲーム機がずらり、パソコンのモニターは三つ。コードがあちこちでぐちゃぐちゃになって、ちょっとお掃除が大変そうだ。

 部屋の隅に寄りかかって、お母さんの携帯へ電話する。数回のコール音の後、聞こえてきたのはいつもと変わらない明るいお母さんの声だった。
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