幸せでいるための秘密
水音だけが響くお風呂で、その声はやけに大きく耳を打った。
「遊ぶなら玲一のほうがいいよ。椎名家には自由があるからね」
「どういう意味ですか……?」
「言葉の通りだよ」
一華さんの大きな双眸がゆっくりとひそめられていく。それから彼女はまとわりつく羽虫を払うように、忌々しげに吐き捨てた。
「あの家の男は頭がおかしいんだ。息子も、父親もね」
父親?
樹くんのお父さんということは、一華さんや椎名くんにとっては伯父さんにあたる人だ。私の知らない樹くんのご家族を、この人たちは当然知っているのだろう。……でも、あまりにもひどい言い様に、私は言葉を失ってしまう。
「あんたもどうせ見た目に騙されたクチでしょ。確かに樹は、見た目だけは抜群にいいからね」
「…………」
「でもあの男も父親と同じ。優しさのかけらも持ち合わせない、自己愛の塊みたいな男だ。悪いことは言わないから、あんたも手遅れになる前に逃げた方がいい」
「一華さん」
言葉を遮られた一華さんが、そこでようやく私の方へ顔を向ける。
「私、大学一年の頃も、樹くんと付き合ってました」
ハッと目を見開いた一華さんが、小さな声で何かを口走った。まさか、あんたが。そう言われた気がした。
「じゃあわかるでしょ? 樹は――」
「確かに樹くんはちょっと怖い人ですけど!」
大学時代に付き合っていた頃も、なんならつい最近も、樹くんの優しさを私は確かに怖く感じた。それは否定できない事実。でも。
「でも今、私は彼の優しさに助けられてます。つらいときや危ないとき、樹くんはいつも私のためになんでもしてくれました。住む場所を用意してくれて、あたたかい言葉をかけてくれて、怖い思いをしたら駆けつけてくれて。その優しさを……自己愛の塊なんて言われるのは……」
そこで言葉を切り、一華さんを見上げる。
「私は嫌です」
唇を一文字に結んだまま、一華さんは黙っている。その目には、まるで見ず知らずの死体を見下ろすような、妙な冷ややかさがあった。
私は奥歯を噛みしめて、一華さんの滲み出る怒りを真っ向から受け止める。一華さんが怖い。でも、私にも退けない理由がある。
「あたしは親切心で言ってるんだよ」
「それはありがたいですけど、私は自分の目で見たものを信じたいです」
「あんたの目が正しく見えている保証はどこにもない」
「それは一華さんにだって同じことが言えるじゃないですか」
「あたしにはわかる。あたしはずっと見てきたんだ」
「どうしてそんなに樹くんを悪く言うんですか!」
私の場違いな大声が浴室に反響して消えていく。シャワーを使っていた他のお客さんたちが、怪訝な顔で私を見る。
耳が痛いほどの沈黙が、私と一華さんを包み込む。彼女はまっすぐに私を見つめ――でも、私の奥に別の誰かの姿を見ながら、絞り出すような声で言った。
「何も知らない田舎娘の心が壊れていくのは、もう嫌なんだよ」
「遊ぶなら玲一のほうがいいよ。椎名家には自由があるからね」
「どういう意味ですか……?」
「言葉の通りだよ」
一華さんの大きな双眸がゆっくりとひそめられていく。それから彼女はまとわりつく羽虫を払うように、忌々しげに吐き捨てた。
「あの家の男は頭がおかしいんだ。息子も、父親もね」
父親?
樹くんのお父さんということは、一華さんや椎名くんにとっては伯父さんにあたる人だ。私の知らない樹くんのご家族を、この人たちは当然知っているのだろう。……でも、あまりにもひどい言い様に、私は言葉を失ってしまう。
「あんたもどうせ見た目に騙されたクチでしょ。確かに樹は、見た目だけは抜群にいいからね」
「…………」
「でもあの男も父親と同じ。優しさのかけらも持ち合わせない、自己愛の塊みたいな男だ。悪いことは言わないから、あんたも手遅れになる前に逃げた方がいい」
「一華さん」
言葉を遮られた一華さんが、そこでようやく私の方へ顔を向ける。
「私、大学一年の頃も、樹くんと付き合ってました」
ハッと目を見開いた一華さんが、小さな声で何かを口走った。まさか、あんたが。そう言われた気がした。
「じゃあわかるでしょ? 樹は――」
「確かに樹くんはちょっと怖い人ですけど!」
大学時代に付き合っていた頃も、なんならつい最近も、樹くんの優しさを私は確かに怖く感じた。それは否定できない事実。でも。
「でも今、私は彼の優しさに助けられてます。つらいときや危ないとき、樹くんはいつも私のためになんでもしてくれました。住む場所を用意してくれて、あたたかい言葉をかけてくれて、怖い思いをしたら駆けつけてくれて。その優しさを……自己愛の塊なんて言われるのは……」
そこで言葉を切り、一華さんを見上げる。
「私は嫌です」
唇を一文字に結んだまま、一華さんは黙っている。その目には、まるで見ず知らずの死体を見下ろすような、妙な冷ややかさがあった。
私は奥歯を噛みしめて、一華さんの滲み出る怒りを真っ向から受け止める。一華さんが怖い。でも、私にも退けない理由がある。
「あたしは親切心で言ってるんだよ」
「それはありがたいですけど、私は自分の目で見たものを信じたいです」
「あんたの目が正しく見えている保証はどこにもない」
「それは一華さんにだって同じことが言えるじゃないですか」
「あたしにはわかる。あたしはずっと見てきたんだ」
「どうしてそんなに樹くんを悪く言うんですか!」
私の場違いな大声が浴室に反響して消えていく。シャワーを使っていた他のお客さんたちが、怪訝な顔で私を見る。
耳が痛いほどの沈黙が、私と一華さんを包み込む。彼女はまっすぐに私を見つめ――でも、私の奥に別の誰かの姿を見ながら、絞り出すような声で言った。
「何も知らない田舎娘の心が壊れていくのは、もう嫌なんだよ」