幸せでいるための秘密



 結局あの後、一華さんは私に何も説明しないままひとりで先に帰ってしまった。

 ひとりエントランスに残された私は、飲みかけのペットボトルを弄びながらベンチで樹くんたちを待つ。

 運動自体は楽しかったと思う。久しぶりにたくさん汗をかいて、身体をしっかり疲れさせた。今夜はきっといつもよりも早く深く眠れるだろう。

 でも私の心には、ぶつけどころのないもやもやが残ったまま。

(樹くんのお父さん、か……)

 一華さんの強い言葉と、憎しみに暗く燃える瞳を思い出す。

 知りたくないと言えば噓になる。でも、あまりにも内容がプライベート過ぎて、聞き出す勇気が湧いてこない。

「百合香」

 スマホで適当なニュースを眺めながら一人いらいらしていると、私服に戻った樹くんが鞄を片手に歩いてきた。私たち同様お風呂で汗を流したのだろう、湿った髪がうなじに張り付いている。

「お疲れさま、樹くん」

「ああ、疲れた」

「一華さん、先に帰るって。二人によろしくって言ってた」

「そうか。……」

 私の隣に腰かけた樹くんは、炭酸ジュースの缶をあけ喉を反らして飲み干した。上下する喉仏。少し甘いため息をついて、視線が床の木目を滑る。

「一華さんにはもう会わないでほしい」

 心臓をぎゅっと鷲掴みにされた心地がした。

「……どうして?」

「あの人は昔から俺のことが好きじゃない。きみに対しても、きっと俺の陰口を吹き込んだだろう」

 彼女との会話を思い出し、少しだけ背筋が寒くなる。いくら大声になったとしても、女風呂で話していたことが樹くんの耳に届くはずない。

 でも、彼はきっと知っているのだろう。

 一華さんが私に伝えようとした、その内容を。

「…………」

 彼の心を傷つけないために、陰口なんて聞いていないと嘘をつくべきだろうか。

 それとも逆に思い切って、こんなことを言われたと打ち明け、『父親』の話を聞き出すべきか。

 目を泳がせる私の隣で、樹くんもまた黙り込む。お風呂でさっぱりしたばかりのはずなのに、私の額に嫌な汗が滲んでいく。

「それに」

 樹くんの持つジュースの空き缶が、ベコと音を立ててひしゃげた。

「今日みたいな格好を他の男に見せるのは、嫌だ」

 突然の話題の転換に、私は思わず「へ?」と間抜けな声を漏らした。

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