幸せでいるための秘密
 そのとき、ブブブと小さなバイブ音が部屋のどこかから聞こえてきた。

 椎名くんが立ち上がり、カウンターに置きっぱなしの樹くんのスマホを取る。投げ渡されたそれを片手でキャッチし、樹くんはゆっくりと身体を起こした。

「…………」

 無言で立ち上がった樹くんが、そのまま廊下の奥へと消える。なんだろう、ただ歩いているだけなのに、言い様のない不穏な空気が少し肌にひりついた気がする。

「でも、一華ちゃんにも困ったもんだね」

 スマホでメッセージを打ちながら、椎名くんが面倒くさそうにぼやく。

「あの人ものすごいお節介だから、中原のことが気になって気になって仕方ないみたいで」

「そうなんだ」

「うん。でもまあ、あんまり気にしなくていいよ。きっとそのうち飽きるだろうから」

 ――あの家の男は頭がおかしいんだ。息子も、父親もね。

 お節介。あの言葉は、そんな可愛らしい一言で収まりきるものとは思えなかった。もっと根深く、もっと恐ろしく、もっと重たい憎悪のかたまりが見え隠れしていた気がする。

 椎名くんは簡単に言うけど、一華さんには一華さんの理由がきっとあるのだろう。他の親戚の人たちはどうなのかな。たとえば樹くんの……うん?

「そういえば私、樹くんのご家族のこと全然知らないや」

 兄弟はいるのか、とか、ご家族のお仕事は、とか。

 一華さんがちらりと漏らしたお父さんの件もそうだけど、思えば私は樹くんの周りのことを何も知らずにいた。椎名くんが従兄弟にあたるということすら知らなかったほどだ。

 それは本当に何気ない、いっさいの他意のない独り言だったのだけど、椎名くんは少し微笑んだまま返事をしてはくれなかった。

 変な沈黙が部屋を包む。

 しばらくして、樹くんが戻ってきた。

 彼はいつもと同じ冷静な――でも、どこか陰のある表情で、

「里野彰良だが」

 唐突に、その名前を口にした。

「九州で行われるサミットでの警備担当になることが決まった。短期間だが神奈川県から離れる形になる」

「……え?」

「サミット後は戻ってくるが、今までの交番を離れ遠方の駐在所での勤務となる予定だ。ここへは電車とバスを乗り継いで数時間かかる距離になる。今までのように気軽に現れることはできなくなるだろう」

 樹くんは淡々と言う。でも、その内容は爆弾発言だ。

 彰良が神奈川を離れる? 帰ってきた後も、遠くの町へ行くことになる?

「それって、つまり」

 ……私はようやく、自由になれるってこと?

 頭が追い付いていかないけど、それで間違いないだろう。理解が進んでいくにつれて、身体の中に残り続けていた重荷がするすると消えていくのがわかる。

 長かった。本当に。

 でも、これでやっと、私たちは自由だ。

「国家権力を動かしたの?」

 唐突な椎名くんの声は、いつもより数段冷ややかだった。

 そこでようやく、喜び一色の私の心にも疑問が生まれる。樹くんは、なぜそのことを? ううん、それより……一体どうやって?

「代償は大きいんじゃない?」

 椎名くんの言葉に、樹くんは遠くを眺めたまま「そうだな」とだけ呟いた。


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