幸せでいるための秘密
第十一章 恋人解禁
「ねえ、ほんとに帰んの?」
「帰る」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「あと一か月……いや、一週間残らない?」
「残らない」
「まじでぇ……?」
けんもほろろに扱われた椎名くんが、隣にいた私へ顔を向ける。
鷲掴みにされる両肩。戸惑う間もなく、女の子みたいに可愛い顔が無遠慮にずいと近づいてきた。
「あのさあ中原、やっぱり俺たち三人で付き合わない?」
「え!?」
「俺、うまくやるよ。平日は俺ん家で、土日は波留のところ行けばいいじゃん。今までどおり送迎もやるし、なんなら【下品につき削除】だって」
「椎名!」
樹くんに首根っこを掴まれ、ギャーと叫んだ椎名くんが引き剥がされていく。
そのとき、ブブブと小さなバイブ音が部屋のどこかから聞こえてきた。
椎名くんが立ち上がり、カウンターに置きっぱなしの樹くんのスマホを取る。投げ渡されたそれを片手でキャッチし、樹くんはゆっくりと身体を起こした。
「…………」
無言で立ち上がった樹くんが、そのまま廊下の奥へと消える。なんだろう、ただ歩いているだけなのに、言い様のない不穏な空気が少し肌にひりついた気がする。
「でも、一華ちゃんにも困ったもんだね」
スマホでメッセージを打ちながら、椎名くんが面倒くさそうにぼやく。
「あの人ものすごいお節介だから、中原のことが気になって気になって仕方ないみたいで」
「そうなんだ」
「うん。でもまあ、あんまり気にしなくていいよ。きっとそのうち飽きるだろうから」
――あの家の男は頭がおかしいんだ。息子も、父親もね。
お節介。あの言葉は、そんな可愛らしい一言で収まりきるものとは思えなかった。もっと根深く、もっと恐ろしく、もっと重たい憎悪のかたまりが見え隠れしていた気がする。
椎名くんは簡単に言うけど、一華さんには一華さんの理由がきっとあるのだろう。他の親戚の人たちはどうなのかな。たとえば樹くんの……うん?
「そういえば私、樹くんのご家族のこと全然知らないや」
兄弟はいるのか、とか、ご家族のお仕事は、とか。
一華さんがちらりと漏らしたお父さんの件もそうだけど、思えば私は樹くんの周りのことを何も知らずにいた。椎名くんが従兄弟にあたるということすら知らなかったほどだ。
それは本当に何気ない、いっさいの他意のない独り言だったのだけど、椎名くんは少し微笑んだまま返事をしてはくれなかった。
変な沈黙が部屋を包む。
しばらくして、樹くんが戻ってきた。
彼はいつもと同じ冷静な――でも、どこか陰のある表情で、
「里野彰良だが」
唐突に、その名前を口にした。
「九州で行われるサミットでの警備担当になることが決まった。短期間だが神奈川県から離れる形になる」
「……え?」
「サミット後は戻ってくるが、今までの交番を離れ遠方の駐在所での勤務となる予定だ。ここへは電車とバスを乗り継いで数時間かかる距離になる。今までのように気軽に現れることはできなくなるだろう」
樹くんは淡々と言う。でも、その内容は爆弾発言だ。
彰良が神奈川を離れる? 帰ってきた後も、遠くの町へ行くことになる?
「それって、つまり」
……私はようやく、自由になれるってこと?
頭が追い付いていかないけど、それで間違いないだろう。理解が進んでいくにつれて、身体の中に残り続けていた重荷がするすると消えていくのがわかる。
長かった。本当に。
でも、これでやっと、私たちは自由だ。
「国家権力を動かしたの?」
唐突な椎名くんの声は、いつもより数段冷ややかだった。
そこでようやく、喜び一色の私の心にも疑問が生まれる。樹くんは、なぜそのことを? ううん、それより……一体どうやって?
「代償は大きいんじゃない?」
椎名くんの言葉に、樹くんは遠くを眺めたまま「そうだな」とだけ呟いた。
昨夜からずっとこんな調子だ。彰良の件の解決に伴い、私たちは椎名くんの家から、もとの家――樹くんの家へと戻ることになった。
椎名くんには本当にお世話になったし、三人の生活だって正直ちょっと楽しかった。だから、こんなふうに素直に寂しいなんて言われると、私としても後ろ髪を引かれる思いがするのだけど。
「お前はお前でさっさと相手見つけろよ」
「はーっ、むかつく! 他人事だと思って! 俺がこんなに寂しい思いをしてるのに!」
「どうせそのうちシンガポールに戻るんだろ」
「戻るよ! でもさあ、こんなに長く三人で一緒に暮らしてて、いきなり一人で放り出されたら誰だって寂しくなるもんでしょ!」
人目もはばからず大騒ぎする椎名くんに、私と樹くんは顔を見合わせる。あと一週間くらい……と、口を開きかけた私を制し、樹くんは無言で首を横に振った。
「波留のケチ!!」
わーっと泣き真似をして椎名くんが私に抱き着く。樹くんのこめかみに浮かぶ青筋。ああもう、二人そろってこんなときまで揉めなくてもいいのに。
でも椎名くんだって別に、本気で言っているわけじゃないはずだ。私と樹くんが仕事をしている間、彼は私たちの荷物を全部車で運び出しておいてくれた。
つまり、もうこの家には私たちの私物は何もない。あと一週間泊まりたくても、パジャマも下着もないわけだ。
「パジャマでもなんでも買ってあげるから……」
私の考えを見越したみたいに、椎名くんが囁きかける。うーん、さすがお金持ち。これはまさしく悪魔の囁きかも。
「帰る」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「あと一か月……いや、一週間残らない?」
「残らない」
「まじでぇ……?」
けんもほろろに扱われた椎名くんが、隣にいた私へ顔を向ける。
鷲掴みにされる両肩。戸惑う間もなく、女の子みたいに可愛い顔が無遠慮にずいと近づいてきた。
「あのさあ中原、やっぱり俺たち三人で付き合わない?」
「え!?」
「俺、うまくやるよ。平日は俺ん家で、土日は波留のところ行けばいいじゃん。今までどおり送迎もやるし、なんなら【下品につき削除】だって」
「椎名!」
樹くんに首根っこを掴まれ、ギャーと叫んだ椎名くんが引き剥がされていく。
そのとき、ブブブと小さなバイブ音が部屋のどこかから聞こえてきた。
椎名くんが立ち上がり、カウンターに置きっぱなしの樹くんのスマホを取る。投げ渡されたそれを片手でキャッチし、樹くんはゆっくりと身体を起こした。
「…………」
無言で立ち上がった樹くんが、そのまま廊下の奥へと消える。なんだろう、ただ歩いているだけなのに、言い様のない不穏な空気が少し肌にひりついた気がする。
「でも、一華ちゃんにも困ったもんだね」
スマホでメッセージを打ちながら、椎名くんが面倒くさそうにぼやく。
「あの人ものすごいお節介だから、中原のことが気になって気になって仕方ないみたいで」
「そうなんだ」
「うん。でもまあ、あんまり気にしなくていいよ。きっとそのうち飽きるだろうから」
――あの家の男は頭がおかしいんだ。息子も、父親もね。
お節介。あの言葉は、そんな可愛らしい一言で収まりきるものとは思えなかった。もっと根深く、もっと恐ろしく、もっと重たい憎悪のかたまりが見え隠れしていた気がする。
椎名くんは簡単に言うけど、一華さんには一華さんの理由がきっとあるのだろう。他の親戚の人たちはどうなのかな。たとえば樹くんの……うん?
「そういえば私、樹くんのご家族のこと全然知らないや」
兄弟はいるのか、とか、ご家族のお仕事は、とか。
一華さんがちらりと漏らしたお父さんの件もそうだけど、思えば私は樹くんの周りのことを何も知らずにいた。椎名くんが従兄弟にあたるということすら知らなかったほどだ。
それは本当に何気ない、いっさいの他意のない独り言だったのだけど、椎名くんは少し微笑んだまま返事をしてはくれなかった。
変な沈黙が部屋を包む。
しばらくして、樹くんが戻ってきた。
彼はいつもと同じ冷静な――でも、どこか陰のある表情で、
「里野彰良だが」
唐突に、その名前を口にした。
「九州で行われるサミットでの警備担当になることが決まった。短期間だが神奈川県から離れる形になる」
「……え?」
「サミット後は戻ってくるが、今までの交番を離れ遠方の駐在所での勤務となる予定だ。ここへは電車とバスを乗り継いで数時間かかる距離になる。今までのように気軽に現れることはできなくなるだろう」
樹くんは淡々と言う。でも、その内容は爆弾発言だ。
彰良が神奈川を離れる? 帰ってきた後も、遠くの町へ行くことになる?
「それって、つまり」
……私はようやく、自由になれるってこと?
頭が追い付いていかないけど、それで間違いないだろう。理解が進んでいくにつれて、身体の中に残り続けていた重荷がするすると消えていくのがわかる。
長かった。本当に。
でも、これでやっと、私たちは自由だ。
「国家権力を動かしたの?」
唐突な椎名くんの声は、いつもより数段冷ややかだった。
そこでようやく、喜び一色の私の心にも疑問が生まれる。樹くんは、なぜそのことを? ううん、それより……一体どうやって?
「代償は大きいんじゃない?」
椎名くんの言葉に、樹くんは遠くを眺めたまま「そうだな」とだけ呟いた。
昨夜からずっとこんな調子だ。彰良の件の解決に伴い、私たちは椎名くんの家から、もとの家――樹くんの家へと戻ることになった。
椎名くんには本当にお世話になったし、三人の生活だって正直ちょっと楽しかった。だから、こんなふうに素直に寂しいなんて言われると、私としても後ろ髪を引かれる思いがするのだけど。
「お前はお前でさっさと相手見つけろよ」
「はーっ、むかつく! 他人事だと思って! 俺がこんなに寂しい思いをしてるのに!」
「どうせそのうちシンガポールに戻るんだろ」
「戻るよ! でもさあ、こんなに長く三人で一緒に暮らしてて、いきなり一人で放り出されたら誰だって寂しくなるもんでしょ!」
人目もはばからず大騒ぎする椎名くんに、私と樹くんは顔を見合わせる。あと一週間くらい……と、口を開きかけた私を制し、樹くんは無言で首を横に振った。
「波留のケチ!!」
わーっと泣き真似をして椎名くんが私に抱き着く。樹くんのこめかみに浮かぶ青筋。ああもう、二人そろってこんなときまで揉めなくてもいいのに。
でも椎名くんだって別に、本気で言っているわけじゃないはずだ。私と樹くんが仕事をしている間、彼は私たちの荷物を全部車で運び出しておいてくれた。
つまり、もうこの家には私たちの私物は何もない。あと一週間泊まりたくても、パジャマも下着もないわけだ。
「パジャマでもなんでも買ってあげるから……」
私の考えを見越したみたいに、椎名くんが囁きかける。うーん、さすがお金持ち。これはまさしく悪魔の囁きかも。