幸せでいるための秘密



 電話番号を登録する段階になってはじめて、私は桂さんの名前を知らないことに気がついた。

 仕方がないので電話帳には『桂さん』と、ありのままで登録する。

 まあ名前以前に、私は桂さんのことを何も知らない。いつから病院に入院しているのか、そもそもどんなご病気なのか、どんな身分の方なのか……。

 最後のひとつはだいたい想像がつく。あんな病室に長々入院しているくらいだ。それはもう、私みたいな庶民なんかでは、普通なら口も利けないような方のはず。

(必ず来て、か)

 初めてお会いした日のことを思い出す。

 窓辺に腰かけ、街を見下ろす桂さんの横顔は、孤独に慣れて寂しさすら忘れてしまっているように見えた。

(今までと違って自由に出歩けるし、仕事の帰りにまたお邪魔してみようかな)

「百合香」

 部屋の外から樹くんの声が聞こえた。

 慌ててスマホをハンドバッグにしまい、私はスカートのしわを叩く。髪型よし。服装よし。お化粧は、まあ……これでいいや。

「ごめん、すぐ行くね」

 すでに靴を履き終えた樹くんが、ドアノブに手をかけて微笑んでいる。

 そう、私たちは今日ようやく……普通のデートに行くのです!




 最後にこのショッピングモールに来たのは、まだ私たちが単なるルームシェア仲間だった頃。

 樹くんのパジャマを買いに来たはずだったけど、結局満足に買い物もできず、逃げるように駅へ向かう中で里野彰良と再会した。

 ずいぶん昔のことのようだけど、実はあれからまだ半年も経っていない。本当に私のここ数か月は怒涛の勢いで過ぎていったと思う。まあ、ストーカーで不自由する期間なんて、短ければ短いほどいいに決まっているのだけど。

「今日は絶対に樹くんのパジャマを買います」

「俺は百合香の服を見に行きたい」

「まずパジャマです。椎名くんにもさんざん馬鹿にされたじゃない」

 懐かしい! クソダサジャージ! と、げらげら笑う椎名くん。ちなみに椎名くんのクローゼットにもまったく同じジャージがしまわれていて、試しに着てみてとお願いしたけど丁重にお断りされてしまった。

 それにやっぱりジャージは寝づらいだろうし、いっそ私からのプレゼントということで新しいパジャマを……と思っていると、突然樹くんの人差し指が私の唇をつんとつついた。

 指先を視線で追いかけると、少しむっとした表情の樹くんと目が合う。彼は帽子のつばを軽く持ち上げ、

「他の男の名前は禁止」

 と、拗ねたような声でたしなめた。
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