幸せでいるための秘密
第十二章 天使の足音
「あの、バカ上司……!」
樹くんのらしくない大声が響いたのは、土曜日の午前八時のこと。
いつもより遅めの朝ご飯を終えて、さあお出かけの準備をしようと腰を上げた頃だった。
「どうしたの?」
「休日出勤のご命令だ。いきなり客が来ることになったから急いで支度して出勤しろだと」
スマホを破壊しかねない勢いで握りしめ、樹くんはわなわなと震えている。確かにあまりにも唐突で、非常に迷惑なご命令だ。私も同じような連絡が来たら、きっと彼に負けないくらい怒り狂うことだろう。
「その分平日に代休もらえるし、諦めて行ってきなよ」
「でも、百合香」
「こっちのことは気にしなくていいから。ね?」
そう言って私はコルクボードを指さす。白いリビングで一際目立つそれは、お互いの連絡事項や思い出の写真なんかを飾っておくために取りつけたものだ。
そして今、ボードの一番上に留められている二枚のチケット。時間指定制の企画展もセットになった、有名美術館の前売り券だ。
前回のデートを終えた夜、近場のホテルでひとしきり鬱憤を発散した樹くんは、正気を取り戻したみたいに何度も謝ってきた。次のデートはもっときちんとしたものにしたいと言われて、だったらエスコートをお願いしますと彼にプランを丸投げしたところ、翌々日くらいに渡されたのがこの二枚のチケットだ。
正直私は芸術に疎い。絵のことも画家のこともまったく詳しくないのだけど、確かに二人で美術館なんてデートらしくていいかもしれない。せっかくだから新品のワンピースなんて買っちゃって、私なりに今日のデートを楽しみにしていたのだけど。
「英語使えるのが俺しかいないからって、いいように使いやがって……」
ぶつくさ文句を言いながら、樹くんは大急ぎでスーツに着替える。バタバタと鞄を手に取り、ネクタイを雑に結びながら、あっという間にお仕事モードの樹くんが出来上がっていく。
こんなこと本人には言えないけど、実は私は樹くんのスーツ姿が大好きだ。しゅっとしていて、理知的で、彼の魅力を最大限に引き出す格好のひとつだと思う。同じくらい好きなのが弓道着。もちろん、私服も好きだけどね。
「本当にごめん。必ず埋め合わせはするから」
「いいよ、大丈夫。気をつけていってらっしゃい」
小さく手を振る私に申し訳なさそうな目を向け、樹くんは靴をつっかけると体当たりする勢いでドアを開けた。
「そのチケット、友達か誰かと使ってくれ!」
私の返事も待たないうちに、足音が遠ざかっていく。駅まで走るのかな、真面目だなぁ。そういうところも、実はけっこう好きだったりする。
本人に言うとその三倍くらい私のどこが好きかを語り始めるから普段は控えているのだけど、私、どうやら樹くんのことが結構どっぷり好きらしい。
(でも、どうしようかな、チケット)
一人残されてしまった部屋で、コルクボードのチケットを手に取る。日付は間違いなく今日のもの。指定の時間は午後だからまだまだ余裕があるけれど、一体どうしたものだろう。
樹くんのらしくない大声が響いたのは、土曜日の午前八時のこと。
いつもより遅めの朝ご飯を終えて、さあお出かけの準備をしようと腰を上げた頃だった。
「どうしたの?」
「休日出勤のご命令だ。いきなり客が来ることになったから急いで支度して出勤しろだと」
スマホを破壊しかねない勢いで握りしめ、樹くんはわなわなと震えている。確かにあまりにも唐突で、非常に迷惑なご命令だ。私も同じような連絡が来たら、きっと彼に負けないくらい怒り狂うことだろう。
「その分平日に代休もらえるし、諦めて行ってきなよ」
「でも、百合香」
「こっちのことは気にしなくていいから。ね?」
そう言って私はコルクボードを指さす。白いリビングで一際目立つそれは、お互いの連絡事項や思い出の写真なんかを飾っておくために取りつけたものだ。
そして今、ボードの一番上に留められている二枚のチケット。時間指定制の企画展もセットになった、有名美術館の前売り券だ。
前回のデートを終えた夜、近場のホテルでひとしきり鬱憤を発散した樹くんは、正気を取り戻したみたいに何度も謝ってきた。次のデートはもっときちんとしたものにしたいと言われて、だったらエスコートをお願いしますと彼にプランを丸投げしたところ、翌々日くらいに渡されたのがこの二枚のチケットだ。
正直私は芸術に疎い。絵のことも画家のこともまったく詳しくないのだけど、確かに二人で美術館なんてデートらしくていいかもしれない。せっかくだから新品のワンピースなんて買っちゃって、私なりに今日のデートを楽しみにしていたのだけど。
「英語使えるのが俺しかいないからって、いいように使いやがって……」
ぶつくさ文句を言いながら、樹くんは大急ぎでスーツに着替える。バタバタと鞄を手に取り、ネクタイを雑に結びながら、あっという間にお仕事モードの樹くんが出来上がっていく。
こんなこと本人には言えないけど、実は私は樹くんのスーツ姿が大好きだ。しゅっとしていて、理知的で、彼の魅力を最大限に引き出す格好のひとつだと思う。同じくらい好きなのが弓道着。もちろん、私服も好きだけどね。
「本当にごめん。必ず埋め合わせはするから」
「いいよ、大丈夫。気をつけていってらっしゃい」
小さく手を振る私に申し訳なさそうな目を向け、樹くんは靴をつっかけると体当たりする勢いでドアを開けた。
「そのチケット、友達か誰かと使ってくれ!」
私の返事も待たないうちに、足音が遠ざかっていく。駅まで走るのかな、真面目だなぁ。そういうところも、実はけっこう好きだったりする。
本人に言うとその三倍くらい私のどこが好きかを語り始めるから普段は控えているのだけど、私、どうやら樹くんのことが結構どっぷり好きらしい。
(でも、どうしようかな、チケット)
一人残されてしまった部屋で、コルクボードのチケットを手に取る。日付は間違いなく今日のもの。指定の時間は午後だからまだまだ余裕があるけれど、一体どうしたものだろう。