八月十五日の花火

 剣道なんて、大嫌いだった。
 視界の悪い面の中に閉じ込められるのも、自分と同じように面で覆われた顔の見えない相手と対峙するのも、足を踏み出した時の床を「ダンッ」と叩く大きな音も、大きな奇声も、飛んでくる竹刀も。防具のくささも。
 怖かった。剣道の全部が怖かった。
 ちっとも強くもなれなくて、自信はどんどん失われていくばかりだった。染みついた防具臭さが、それをさらに助長した。

「これが真剣だったらどうする。お前はとっくに死んでるぞ」

 そう言われても、もう手遅れだ。
 俺はもう、何度も死んでいる。
 死ぬことに、慣れてしまっている。だってこれは竹刀だ。ほんとに死んだりしない。痛いけど。

 練習のたび、試合のたび、俺は死んで帰って来る。すでになくなりかけていた自信も自己肯定感も、空っぽになっていた。
 あの日もそうだった。死んで帰ってきた。

 いつも通りじいちゃんが居間にいて、いつものように俺に言った。

「なんや、今日もやられてきたんか。情けない」

 いつもなら「へいへい」と軽くあしらえた。だけど、その日は虫の居所が悪かった。
 俺だって、思春期だ。多感な時期だ。自分が一体何者なのか、どうして生きてるのか。いや、そんな殊勝なことは考えてないけど、とにかく、なんだかよくわからない何かに対して、よくわからないけどイラつく年頃だ。だから、いつもはしないような口ごたえを、いつもしないような似合わない口調で返した。

「おいぼれジジイに何がわかるんだよ」
「おお、なんや。今日は饒舌やなぁ。そんな口の利き方は、わしから一本取ってからにせぇ」
「あんたから一本なんてとれるわけないだろ。女子からだって一本取ったことないのに」
「なんや、急に弱気になったか。だったら気合入れて練習せぇ」
「剣道なんてもうやらねえよ。チャンバラごっこで倒れるくらいなら、ほんとに死んだ方がマシだよ。大体俺がいつ剣道やりたいって言った? あんたが勝手に……」

 そう言っている間に、俺はものすごい力であっという間に庭先に投げ出されていた。
 訳が分からないまま視線を泳がせていると、焦点が合った先に、鬼の形相のじいちゃんが、孫である俺に木刀を突き付けていた。

「死んだ方がマシなんて、軽々しく口にするな」

 じいちゃんの声は、空を貫く稲妻のようにビリビリと轟いた。

「お前は自分の生まれた日を忘れたか。お前は平和の象徴やぞ。むごく空しいだけの戦争が終わりを告げ、誰も無駄な死を遂げることも、その死を悲しむこともしなくて済む、新しい世の中が始まった日やぞ。皆が再び立ち上がった、日本人にとって誇るべき希望の日やぞ。それをなんや。そんなお前が「死」なんて言葉を口にするとは、恥やと思え」

「そんなこと知らねえよ。俺にそんな高尚な意識ねえんだよ。俺は歴史男子でも歴史愛好家でもないんだよ。こんな日に生まれたことの方が恥ずいわ」

 そう言い終わらないうちに、もう目の前に、木刀の剣先が迫っていた。目をぐっとつぶった。

__死んだ。

 咄嗟にそう思った。だけど、想像していた衝撃はなかった。その代わり、バシーンと乾いた音が辺りに飛び散った。

__死んだのか?

 そっと目を開けると、俺は筋張った腕に、ぐっと抱き留められていた。その逞しい胸板の中で、俺はその人物が誰かを認めた。俺と同じカッターシャツに、学生服のズボン。いつもと違うのは、整った顔立ちが、歪んでいたことだろうか。目をぐっとつぶって、まるで、恐怖と戦っているようだった。

 その肩越しに、揺れるサラサラのポニーテルを見つけた。息が上がっているのが、肩の動きでわかった。その立ち姿は、後ろ姿でも凛々しく頼もしかった。ただ、ちらりと見えた竹刀を握る手が、かすかに震えているように見えた。

 俺を庇ったのは友樹で、じいちゃんの剣先を捌いたのは、美緒だった。

 幸い誰も怪我をすることはなかった。じいちゃんも、本気で俺に当てるつもりはなく寸止めしていたおかげで、美緒の力でもその木刀を振り払うことができたそうだ。
 じいちゃんのしたことは、もちろん世間的にはよろしくない行いだけど、内輪の揉め事として、大人の間でもみ消された。それでもじいちゃんは、精神誠意、友樹の家で土下座をして謝り、美緒の家では床に額をつけて泣いて謝った。というのは友樹からの情報だ。

 俺はというと、その翌日から道場に行かなくなった。部屋の中に閉じこもって、じいちゃんと顔を合わせないようにした。剣道を習っているという理由だけで入部した剣道部も、翌日には辞めた。友樹も一緒に。

 それが、夏休み二日目の話だ。

 今思えば、何をあんなにイライラしていたのか、自分でも思い出せない。暑さのせいなのか、試合に負けたせいなのか、試合では道着を着るのに、この猛暑の中、制服着用で試合会場に足を運ばなければいけないのが不満だったのか。理由は何であれ、多感な時期の些細な反抗だったことは間違いない。
 とはいえ、感情に任せてあんなことを言ってしまった俺が悪いのは誰の目から見ても明らかだった。
 わかってる。じいちゃんは何も悪くない。
 そこまでわかっているなら、謝ればいいだけの話だった。だけど、できなかった。意地を張って、逃げて、気づけば、後戻りも取り返しもつかなくなってしまった。


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