八月十五日の花火
「ちょっとどうしたの? 大きな声出しちゃって」
母さんが縁側から恐る恐るといった感じでこちらをうかがっている。俺は気まずく目を伏せた。それでも居心地が悪くて、この場から逃げようとした時、「友くん、ちょっとこっち手伝ってもらっていい?」と友樹が呼ばれた。
くそぉ、自分の息子より隣のエロ息子を頼るとは、俺はどこまでも落ちぶれてるなと思わずにはいられなかった。
でもまあ、そうだよな。こんな息子、いてもいなくてもいいよな。弱くて、頼りなくて、度胸もなくて、ヘタレで。自慢できることもない。自分の誕生日を、あんな風に罵る息子。産んでもらって、毎年祝ってもらって、感謝の気持ちこそあってもいいのに。
__俺、生まれてこない方が、よかったのかな。
ここが自分のいるべき場所ではないような気がして、下駄をズリズリと地面に引きずりながら、俺は庭から玄関の方に歩いた。
俺は、ここにいない方が良いのかもしれない。
だったらどこに行けばいいだろう?
どうしたらいいだろう?
このまま、あの時と同じように、もう後戻りはできないのだろうか。
友樹ともこのままで、美緒にもあんな顔させたままで、剣道も辞めて……。
俺はこの夏、何もかもを失ってしまうんだろうか。
当てもなく、二歩、三歩と足を進めた時だった。
不意に後ろからどんと何かがぶつかった。そうかと思ったら、俺の腰に、薄い浴衣からあらわになったほっそりとした白い腕が巻きついていた。その手首には、いつもつけない華奢なブレスレットがキラキラと光っていた。その腕が俺の胴回りをきゅっと締め付けると、背中とその小さな体がさらに密着度を増した。
こんな何でもない風に冷静に状況解説してるけど、俺の心臓はとんでもないことになっている。
__なに? なになになになに?
頭が真っ白になって、心の中で声をひっくり返しながら、誰にともなく問いただす。これが本音だ。これが現実だ。
心臓がありえないぐらい早鐘を打ち始めた。その音のそばを、震える声が過ぎていく。
「好きだよ」
「……ふぇ?」
ありえないくらい上ずった声が出た。
「私は、好きだよ。八月十五日。だって、享ちゃんに会えるから」
その言葉に、胸がずきんと疼くのを感じた。
「享ちゃん。忘れちゃった? この日、大切な人に会いに行くのは、亡くなった人の魂だけじゃないんだよ。今を生きる人も、会いたい人に、会いに行くんだよ。この花火のおかげで、みんな大切な人に会いに行ける。八月十五日は大切な人に会いに行ける日。だから、私も好き。享ちゃんに会えるこの日が、享ちゃんと一緒に花火を見られるこの日が、私は大好き」
__え? それはつまり、美緒にとって俺は……。
そんなこと言葉にしてしまうのは、野暮だろうか。
俺の胸に置かれた小さな手に、ぎゅっと力がこめられた。
いつもは小手に隠れて見えないこの手をじっくり見るのは、初めてかもしれない。
滑らかな皮膚。ほっそりし骨格。爪には、ただ色を塗っただけの足先とは違って、繊細なデザインが施されている。
この手が竹刀を握り、あんな力強い技を繰り出すなんて信じられない。
その手が今は震えている。あの時みたいに。
今は弱々しく見えるその手に、俺は触れたくてたまらない衝動に駆られた。
だけど、そっと自分の手を重ねようとしたその時、すっとその手が体から外された。それと同時に、背中に感じていたも熱も離れていく。離れた瞬間、大量の汗が浴衣にしみ込んでいるのが、肌に張り付いた感じと微かに撫でる夜風で感じた。
振り返ると、美緒は俺から顔をそらして乱れた髪を撫でつけていた。
「今のは、ドウだよ」
「……え?」とすっとぼけた声を放つ俺に、美緒はぎこちなく笑いながら話し続けた。
「もうほんと享ちゃんは、隙だらけなんだから。高校で、女の子に弄ばれてない? 享ちゃんはすぐに鼻の下伸ばすんだから」
それは、友樹だろ。
「ぼうっとして、しょうもない恋に落ちないか、心配だよ、まったく」
俺には美緒しか見えてないよ、昔から。
「そんなんじゃモテないぞ」
にっと笑った顔が、ちらりとこちらに向けられた。その笑顔に、心が引き戻される。
その笑顔は、まるで俺の目の前にぱっと開いた、花火のようだった。
「あ、私、家に忘れ物した。ちょっと取りに行ってくるね」
そう言って美緒は俺のそばを通り過ぎていく。その腕を、俺は咄嗟に取った。その手首をぎゅっと握った。
「きょ、享ちゃん?」
「……こ、コテ」
「え?」
「油断、した?」
戸惑う表情の美緒に、俺はイケメンでもない顔を整えた。そして唇を舐めて、次の言葉の準備をした。
言うべき言葉。いつも言えなかった言葉。いつまでも言えなかった言葉。
弱くて、自分に自信がなくて、好きな女子を守れる強さのない自分が嫌で。
「いつ言うの?」と何度も自問したけど、その答えを自信をもって返せなかった。
でも今なら言える。その答えは、いつもただ一つ。
__今でしょ。
震える唇から、声を振り絞る。
「俺も、……だいす……」
その時だ。
「じいちゃんよりメッセージ。『享平』打ち上げまで一分前」
けたたましいサイレンのごとく、座敷の方から母さんの声が早口で張り上げられる。
__なぜ、このタイミング……?
すると、居間から父さんと友樹でアウトドアテーブルが庭に運び出される。そして母さんがコーラの入ったグラスやら寿司桶やら唐揚げの山やらをウエイトレスばりのバランスで両手に乗せて庭先に準備し始める。
急に襲ってきた喧騒に、呆れて全身から力が抜けた。
__なぜだ。なぜ打ち上げ一分前の前に用意するということをしないんだ。
いつもこうだ。毎年こうだ。一分前の連絡が入ると急に慌ただしくなるのは。
毎年、毎年。
毎年……。
思わずふふっと笑いが漏れた。
__そうだ。毎年のことだ。
墓参りに行った後は、俺の成長記録が電波ジャックして、変わらないパーティーメニューが並んで、近所中に広がる線香臭さは、花火大会が始まる少し前からケーキが焼ける甘い匂いに変わって。
懐かしさに顔をほころばせる両親の姿を遠目に見て、スイカを持った色男を縁側で出迎えて、愛おしい人のメンをくらって、「なんだかなぁ……」なスイカ割りに苦笑いを浮かべて。
打ち上げ一分前の慌ただしい号令に、「なんで一分前の前から準備できないんだよ?」と呆れて。
見事な大輪の花が、夜空とこの慌ただしい時間に彩りを添えてくれる。
そして、それを離れた場所から打ち上げる、祖父の、命がけの仕事に思いを馳せる。
そんな一日。
今日も変わらない。
毎年同じ、いつもの八月十五日。