転生したら幼精霊でした~愛が重い聖獣さまと、王子さまを守るのです!~
19 翼に乗って
ジーンは次に目を開いた時、立派な樫の木の下にいた。まだ大樹の中にいるのだろうかとぼんやりしていたら、手に何か濡れた感触があってそちらを振り向く。
「起きたか」
「……ヴィーラント様?」
窓から差し込む紫の光が石の壁を照らしているのを見て、ジーンはそこが室内だと気づく。樫の木の寝台がヴィーラントのものであることにも思い至って、慌てて起き上がろうとする。
「お休みください。疲れが出たのでしょう」
ジーンの肩までシーツをかけてくれたのはイツキだった。ヴィーラントはジーンの手を握って寝台の横に座っていて、赤く滲んだ目でじっとジーンを見つめている。
「もう心配要らない。ヴェルザンディがジーンたちに渡した葡萄酒には、本当は毒なんて入ってなかったんだ」
「そうなのですか……」
「ヴェルザンディは、嘘を言ってすまなかったと」
ジーンは安堵するとともに、ありもしない毒に怯えて失態を見せてしまった自分にしょんぼりする。
「ごめんなさい。みっともないことを」
「確実に死ぬって言われてる毒をあおったら、怖くなって当然よ」
フレイアは椅子から立ち上がってジーンの頭を撫でた。イツキも口の端を下げて、心配そうにジーンを見下ろしている。
「ジーン。俺のせいだってことはわかってるけど」
ジーンの手を強く握って、ヴィーラントは噛みしめるように告げる。
「もう、俺のために身を削るようなことは絶対しないでくれ」
ヴィーラントの目から涙が落ちる。ジーンの胸が痛んだ。
「……それはお約束できません」
それでもジーンは首を横に振って言う。
「私はあなたを守りたいから」
ジーンは自分が意思の強い方ではないことを自覚しているが、これだけは揺るぎない決意を持って言葉にする。
「私の命を削ってヴィーラント様の助けになるのなら、何度でも毒を飲みます。けれど」
ヴィーラントの隣に立つイツキを見上げて、ジーンは告げる。
「私が死んだら、この体はイツキさんに渡してください」
イツキは仮面の下からジーンを見つめていた。静かな視線が二人の間で絡み合う。
「不吉なこと言うなよ。俺より前に死なせやしないからな」
ヴィーラントは目を尖らせて、ジーンの手に自らの頬を押し当てた。
それから少しして、ヴィーラントとフレイアは目配せした。
「ジーン、よく休め。俺たちは行ってくる」
二人は連れ立って出て行った。窓の外の光は消えうせて夜が訪れようとしている時にどうしたのだろうと思ったが、ジーンは問う機会を逃してしまった。
「私、いつまでもここにいてはいけないですよね」
ここはヴィーラントの部屋であるし、一介の村娘の自分がずっとアスガルズ宮に滞在させてもらうのも申し訳ない。イツキと二人きりになってから、ジーンは床に足を落とす。
「今、外にお出でになるのは危険です」
「え?」
「先ほどベルギナが戦線を開いたのです。防衛戦は既に始まっています」
そのようなことをジーンはまるで知らなかった。ヴィーラントもフレイアも戦については一言も告げなかった。
「ここは国王の寝室の次に安全ですから、どうぞこのままお休みください」
イツキは横に膝をついて、ジーンの足から靴下を引き抜いて寝台の中に戻そうとした。ジーンは慌てて首を横に振る。
「ここにいるべきなのはヴィーラント様たちです」
「彼らにも自らを危険にさらしても守りたいものがあるのでしょう。あなたがマナトをお守りになったように」
金色の石がはめこまれた仮面の向こうから、イツキはジーンを見上げてくる。ジーンは俯いて黙りこくった。
(私が戦場に行っても、足を引っ張ってしまうだけ。でも)
何かできることはないかと考えるジーンに、イツキは言葉をかけた。
「私はあなたが望むのであれば、どこへでもお連れします」
視線を上げたジーンを見据えて、イツキは告げる。
「精霊は無力ではありません。私があなたの槍にも盾にもなります」
ジーンはイツキを見つめ返して、小さく頷いた。
夜の闇にまぎれて、ジーンを背に乗せたイツキは空高くに舞い上がった。
本来の姿である巨大なタカに戻ったイツキは、灰色の翼を羽ばたかせてイグラントの闇夜を切っていく。
「寒くはありませんか?」
首にしがみついたジーンを振り落とさないように水平に飛びながら、イツキは問いかける。
「大丈夫です」
ジーンは少しも風が冷たくなかった。飛ぶ前にイツキがたくさん着せてくれたこともあるが、ジーンを取り巻く大気はゆるやかで優しい。
「下はご覧にならない方がよろしい」
イツキの言葉の理由は高さに目が眩むからではなかった。
空高くからだと、あまりによく見えてしまう。城壁を取り囲む荒々しい火や、雨のように降り注ぐ矢、そして……死んでいく人々がそこにはあった。
今のところ、ヴェルザンディ率いるイグラント軍は一か所として城門の突破を許してはいないようだった。ベルギナ軍は破れない城門からの侵入は諦めて、警備の弱い場所の城壁を上ろうとしている。しかし整然と積まれた城壁を上るのは大変な困難を強いられて、いずれの兵も城壁の上からの弓矢に散っていった。
防衛はすべて一層目の城壁で事足りていた。イグラントの兵にはほとんど被害はなく、イグラントの圧倒的な優勢が誰の目にも明らかだった。
だがそれを喜ぶことはジーンにはできなかった。城壁の外側にはベルギナ軍の死体が積み重なっていくのが見える。
血を流し、苦しんでいる人々を見るのはつらかった。たとえ敵国の人間でも、ジーンにとってはイグラントの人々と何も変わりがなかった。
大空を自由に羽ばたく鳥たちにずっと憧れていたが、今こうして飛んでみてもジーンの胸は高鳴るどころか痛い。その鼓動を感じ取ったのか、イツキは金色の瞳に憂いを浮かべた。
「下降します。しっかりつかまっていてください」
やがてイツキが降り立ったのは、イグラントとベルギナの国境にある岩場だった。そこには皿を一面に並べたような大小様々なくぼみが数百個も連なり、そのくぼみには絶えず湯気が噴き出して来るのだった。
伝承によれば、ここには大樹の水源であるウルズの泉があるらしい。その水は大樹の根によって世界の隅々にまで運ばれ、生き物たちを潤しているそうだ。
その昔、ウルズの泉の水を飲むと不老不死になれると言われていた。大樹の恵みの結晶である金のりんごも、元を辿ればウルズの泉の水から作られる。だから泉の水にも聖なる力が宿ると考えられたのだろう。
だがある時、泉の水を手に入れようとこの周囲で人々が争ったために、泉の水が血で濁ってしまった。
それを金のりんごの守護者である聖獣フェルニルが許すはずもない。激怒したフェルニルは争う人々を残らず泉に放りこむと、その水を骨まで溶かす灼熱の湯に変えてしまった。以来、この地の水源は生き物の口にできるものではなくなった。
ただ、その後も大樹に清浄な水が届くことから、フェルニルは人々の肉体と共に泉の水を浄化したのだといわれた。フェルニルの恐ろしさと偉大さを伝える逸話の一つだ。
遠くに戦の喧騒が聞こえるだけで、岩場は静まり返っている。フェルニルの逸話から人々はこの地を恐れて近寄らない。そうでなくとも人の骨をも溶かすような熱湯がどこから噴き出るかもわからない危険な場所だ。
闇の中に湯気が立ち込めて視界が悪く、足元には不規則に岩が突き出ている。人の姿に変化したイツキが手を取ってくれなければ一歩も進めなさそうだった。
やがてイツキは立ち止まって屈みこむ。
「これが大樹の水源。ウルズの泉です」
イツキが示したところには、ジーンが両腕を広げたくらいのくぼみがあった。
「思っていたより小さいのですね」
「これは表面に現れている部分に過ぎませんから。下には広大な水脈があるのです」
ジーンの向かい側でイツキがくぼみの水に手を浸す。ジーンはびくりとしたが、イツキは大丈夫というように頷いて見せた。
そろそろとジーンもくぼみの湧水に手を伸ばす。
「冷たい」
それは氷の海の水のように、ジーンの手を冷やした。ジーンは言葉を失ったが、イツキを見上げて問いかける。
「ここで言霊を告げれば、大樹中の生き物に伝わるのですね?」
イツキは頷いて一言添える。
「ほとんどの人間は言霊を理解できませんが」
ジーンは防衛戦が始まってから、生き物たちがざわついているのを感じていた。動物や植物たちは燃え上がる炎と人々の喧騒に、何が起きたのかもわからず混乱しているのだ。
(せめて、私ができることをしよう)
ジーンはウルズの泉に両手を浸して目を閉じると、心の中から言霊を溢れさせた。
(落ち着いて。人々はあなたたちを傷つけようとしているわけではないの)
彼らの不安を少しでも取り除いてあげられたらと、ジーンは生き物たちに声を届けることにしたのだ。
(今は身を潜めて、朝を待って。戦は必ず終わる時が来るから)
ジーンを取り巻く言霊をますます強く感じる。不安と恐怖の声が混ざり合って、ジーンに訴えかけてくる。
(大丈夫だよ。私はここにいる)
繰り返し言霊を送っている内に、ジーンは自分がどこにいるのかも忘れかけていた。
イツキに手を掴まれて、ジーンは我に返る。ジーンは気づけば汗をびっしょりとかいて、熱に浮かされたように手が震えていた。
「これくらいになさってください。あなたが蝕まれてしまう」
イツキはジーンの手を泉から引き抜く。
「あなたの心が穏やかであるのが何より大切なこと。あなたの望むまま、命じればよいのです」
ジーンの手を両手で掴んで、イツキはためらわずに告げる。
「嵐を呼んで雷を落とすことも、私がしたように地下深くに眠る火で人々を焼きつくすこともできます。そのすべが思い出せないのなら、私に一言命じてください」
ウルズの泉のように冷たい手が、ジーンの手を包み込んでくれる。
「ベルギナでもイグラントでも、私があなたの敵を滅ぼしましょう」
「……私」
ジーンはまだ震える手を見下ろしながら口を開く。
「何が私の敵なのか、わからないのです」
戦は恐ろしく、それに翻弄される生き物たちを守りたいとは思った。だが誰を憎んでいいのか、ジーンにはわからなかった。
「それにとても怖いのです」
ジーンを焦らせることなく、イツキはジーンの言葉が出てくるのをじっと待ってくれている。
「命はこの世界をゆっくり巡っていると聞きました。でも私は命の流れのことをよく知らなくて、どこで何がつながっているのかわからない」
ジーンが泉の水に細い指先で触れると、小さな波紋が生まれる。それを見つめながらジーンは言葉を続ける。
「嵐を起こしたら、どこかで水が絶えて苦しむ生き物たちがいるかもしれない。命の流れに淀みができてしまうかもしれない。だから」
今はこのくらいしかできないと、ジーンは呟く。途方に暮れたように黙りこくるジーンを、イツキは見つめていた。
「あなたの御心のままに」
手を引いて、イツキはジーンを助け起こす。
「ですが、どうかご自身の力を恐れないで。あなたの力は自然界に元々備わっているもの。あなたがそれをどのように使おうと、私たちは受け入れます」
イツキは空を仰ぐ。折れてしまいそうなほど細い月が傾いて来ていた。
「夜が明けぬ内に戻りましょう」
「あ、少しお待ちください」
タカの姿に戻ったイツキの前で、ジーンは辺りを見回す。
「ここのどこかの水源は、ベルギナにも続いているのでしょう。でしたら、ベルギナの生き物たちにも言霊を……」
ベルギナの生き物たちの身を案じたジーンに、イツキは首を横に振る。
「それはできません。お乗りください」
イツキの声が有無を言わさない調子だったので、ジーンは迷いながらもイツキの背中に乗った。
「ごめんなさい。敵国の生き物に言霊を送ることは、イツキさんには不快なことですよね」
「いいえ。そうではないのです」
雲が晴れて月灯りが差しこむ空に飛び立ちながら、イツキは苦い口調で告げる。
「ベルギナの地には精霊の呪いが満ちていて、言霊が届かないのです」
「精霊の呪いが?」
「月の方角をご覧ください。あちらがベルギナです」
月が出ている右の方面を見やって、ジーンは息を飲む。
月の光で照らしだされた先は、枯れ果てた木々がぽつぽつと立っているだけだった。大樹の恵みで潤うイグラントのすぐ先にあるにもかかわらず、生き物の気配すら乏しい荒れ地しかない。
痛々しささえ感じさせる大地を見て、ジーンは喉を詰まらせた。
「かつてベルギナにも精霊がおりました。人々に信仰され、愛された存在でした。ですが次第に人々の信仰が変わっていったのです」
イツキは金色の瞳に暗い光を宿しながら、前方を睨む。
「ベルギナは木の国と違い、天候が不安定で土地が貧しいのです。そのことは精霊には変えようもなかったのですが、人々は豊かな恵みを要求し、それを与えない精霊を呪うようになりました。……そしてついに、彼らは神を求めてしまったのです」
「か……」
ジーンは神という言葉を口にしようとしたが、できなかった。それは言葉にしようとすると、ジーンの喉を凍りつかせてしまう。
「前の世界でも聞きました。……怖いものですね」
何度か呼吸をして、ようやくジーンの口から言葉が零れる。
イツキはうなずき返して言う。
「神への信仰は精霊への信仰を蝕んでしまうのです。神は精霊を殺します」
息を呑んだジーンに、イツキは言葉を続けた。
「ベルギナの精霊も神への信仰に蝕まれて消えてしまいました。その時、自らを破滅に追い込んだ人々を恨み、ベルギナ中に呪いをまき散らしたのです。呪いは災厄となって数多の生き物の命を奪い、あのような姿になってしまったのです」
ジーンは荒れ果てたベルギナの土地を見つめながら、悲しみが押し寄せるのを感じた。
「ベルギナにも聖獣様がいるのでしょうか?」
「ええ。確か灰色の目をした、屈強なイノシシでした。ですがベルギナの精霊が消えて五十年は経っておりますから、おそらくはもう……」
イツキが口にしなかった言葉の先を察して、ジーンは俯いた。
空には荒れ狂う波のように人々の怒号が響く。耳を覆いたくなるような陰惨な音も聞こえて、ジーンは苦しさに顔を歪めた。
――助けて。
耳に届いた声に、ジーンは身じろぎをする。
「どうされましたか?」
「今、確かに」
上空からでは人々の言葉は耳で判別がつくものではなく、動物や植物の言霊も混ざり合って曖昧だ。しかしジーンの耳にははっきりと救いを求める声が響く。
「どこ?」
ジーンは身を乗り出して懸命に声の元を知ろうとする。イツキは体を水平に整えながら言った。
「ジーン、あまり身を乗り出すと」
イツキの言葉は唐突に途切れる。凍りつくように押し黙った後、イツキは月の沈む方向を睨んだ。
「……この気配」
イツキの見つめる先にジーンも視線を向ける。明けゆく空の下、欠けた月の沈んでいく前方に何かざわめく気配を感じた。
風に乗って腐臭が漂ってくる。体中をおぞましいものが這いまわるような感覚がして、ジーンは身を引いた。
ベルギナ軍は一旦城壁から兵を引いたように見えた。だがその代わりに巨大な荷台に乗せて、鉄の檻を引き出してきた。
鉄の檻の格子が上がるのと同時に、そこから全身に黒い粘液をまとわせた巨大なものが走りだす。
イツキは声を震わせて怒る。
「なんという愚かなことを。あれは人が使役できるものではないのに!」
イツキは翼を広げるなり方向転換する。ジーンの体は自分のものではないように震え出していた。
大樹の枝の上にジーンを下ろすと、イツキは人の姿に変化する。
「ここに隠れていてください。あれは翼を持ちませんから、樹上は安全です」
イツキは木の上から飛び降りようと身を屈めた。彼の手を、ジーンは反射的に掴む。
「ジーン?」
「……逃げてください」
ジーンは震えながら声を振り絞る。
「イツキさんの翼なら遠くに逃げられます。こんなに強い呪い、イツキさんでも飲みこんでしまいます。早く、遠くに……!」
ベルギナが仕向けた魔獣はベルギナを覆った呪いを巻き込んで膨れ上がり、本来の姿のイツキすらも飲み込むほどの巨体と化していた。たった一体の魔獣の禍々しい気配は大気を濁らせて、イグラント中の生き物が悲鳴を上げているのが聞こえる。
「だからこそ早く討伐する必要があるのです」
「でも!」
「ジーン。私は死にません」
ジーンの足元に跪いて、イツキはジーンの服の裾に口づけた。
「ここに至宝があるのに、その御前で聖獣が倒れるわけがないでしょう?」
口元に微笑みを浮かべて、イツキは大樹の下に向かって飛び下りた。
「起きたか」
「……ヴィーラント様?」
窓から差し込む紫の光が石の壁を照らしているのを見て、ジーンはそこが室内だと気づく。樫の木の寝台がヴィーラントのものであることにも思い至って、慌てて起き上がろうとする。
「お休みください。疲れが出たのでしょう」
ジーンの肩までシーツをかけてくれたのはイツキだった。ヴィーラントはジーンの手を握って寝台の横に座っていて、赤く滲んだ目でじっとジーンを見つめている。
「もう心配要らない。ヴェルザンディがジーンたちに渡した葡萄酒には、本当は毒なんて入ってなかったんだ」
「そうなのですか……」
「ヴェルザンディは、嘘を言ってすまなかったと」
ジーンは安堵するとともに、ありもしない毒に怯えて失態を見せてしまった自分にしょんぼりする。
「ごめんなさい。みっともないことを」
「確実に死ぬって言われてる毒をあおったら、怖くなって当然よ」
フレイアは椅子から立ち上がってジーンの頭を撫でた。イツキも口の端を下げて、心配そうにジーンを見下ろしている。
「ジーン。俺のせいだってことはわかってるけど」
ジーンの手を強く握って、ヴィーラントは噛みしめるように告げる。
「もう、俺のために身を削るようなことは絶対しないでくれ」
ヴィーラントの目から涙が落ちる。ジーンの胸が痛んだ。
「……それはお約束できません」
それでもジーンは首を横に振って言う。
「私はあなたを守りたいから」
ジーンは自分が意思の強い方ではないことを自覚しているが、これだけは揺るぎない決意を持って言葉にする。
「私の命を削ってヴィーラント様の助けになるのなら、何度でも毒を飲みます。けれど」
ヴィーラントの隣に立つイツキを見上げて、ジーンは告げる。
「私が死んだら、この体はイツキさんに渡してください」
イツキは仮面の下からジーンを見つめていた。静かな視線が二人の間で絡み合う。
「不吉なこと言うなよ。俺より前に死なせやしないからな」
ヴィーラントは目を尖らせて、ジーンの手に自らの頬を押し当てた。
それから少しして、ヴィーラントとフレイアは目配せした。
「ジーン、よく休め。俺たちは行ってくる」
二人は連れ立って出て行った。窓の外の光は消えうせて夜が訪れようとしている時にどうしたのだろうと思ったが、ジーンは問う機会を逃してしまった。
「私、いつまでもここにいてはいけないですよね」
ここはヴィーラントの部屋であるし、一介の村娘の自分がずっとアスガルズ宮に滞在させてもらうのも申し訳ない。イツキと二人きりになってから、ジーンは床に足を落とす。
「今、外にお出でになるのは危険です」
「え?」
「先ほどベルギナが戦線を開いたのです。防衛戦は既に始まっています」
そのようなことをジーンはまるで知らなかった。ヴィーラントもフレイアも戦については一言も告げなかった。
「ここは国王の寝室の次に安全ですから、どうぞこのままお休みください」
イツキは横に膝をついて、ジーンの足から靴下を引き抜いて寝台の中に戻そうとした。ジーンは慌てて首を横に振る。
「ここにいるべきなのはヴィーラント様たちです」
「彼らにも自らを危険にさらしても守りたいものがあるのでしょう。あなたがマナトをお守りになったように」
金色の石がはめこまれた仮面の向こうから、イツキはジーンを見上げてくる。ジーンは俯いて黙りこくった。
(私が戦場に行っても、足を引っ張ってしまうだけ。でも)
何かできることはないかと考えるジーンに、イツキは言葉をかけた。
「私はあなたが望むのであれば、どこへでもお連れします」
視線を上げたジーンを見据えて、イツキは告げる。
「精霊は無力ではありません。私があなたの槍にも盾にもなります」
ジーンはイツキを見つめ返して、小さく頷いた。
夜の闇にまぎれて、ジーンを背に乗せたイツキは空高くに舞い上がった。
本来の姿である巨大なタカに戻ったイツキは、灰色の翼を羽ばたかせてイグラントの闇夜を切っていく。
「寒くはありませんか?」
首にしがみついたジーンを振り落とさないように水平に飛びながら、イツキは問いかける。
「大丈夫です」
ジーンは少しも風が冷たくなかった。飛ぶ前にイツキがたくさん着せてくれたこともあるが、ジーンを取り巻く大気はゆるやかで優しい。
「下はご覧にならない方がよろしい」
イツキの言葉の理由は高さに目が眩むからではなかった。
空高くからだと、あまりによく見えてしまう。城壁を取り囲む荒々しい火や、雨のように降り注ぐ矢、そして……死んでいく人々がそこにはあった。
今のところ、ヴェルザンディ率いるイグラント軍は一か所として城門の突破を許してはいないようだった。ベルギナ軍は破れない城門からの侵入は諦めて、警備の弱い場所の城壁を上ろうとしている。しかし整然と積まれた城壁を上るのは大変な困難を強いられて、いずれの兵も城壁の上からの弓矢に散っていった。
防衛はすべて一層目の城壁で事足りていた。イグラントの兵にはほとんど被害はなく、イグラントの圧倒的な優勢が誰の目にも明らかだった。
だがそれを喜ぶことはジーンにはできなかった。城壁の外側にはベルギナ軍の死体が積み重なっていくのが見える。
血を流し、苦しんでいる人々を見るのはつらかった。たとえ敵国の人間でも、ジーンにとってはイグラントの人々と何も変わりがなかった。
大空を自由に羽ばたく鳥たちにずっと憧れていたが、今こうして飛んでみてもジーンの胸は高鳴るどころか痛い。その鼓動を感じ取ったのか、イツキは金色の瞳に憂いを浮かべた。
「下降します。しっかりつかまっていてください」
やがてイツキが降り立ったのは、イグラントとベルギナの国境にある岩場だった。そこには皿を一面に並べたような大小様々なくぼみが数百個も連なり、そのくぼみには絶えず湯気が噴き出して来るのだった。
伝承によれば、ここには大樹の水源であるウルズの泉があるらしい。その水は大樹の根によって世界の隅々にまで運ばれ、生き物たちを潤しているそうだ。
その昔、ウルズの泉の水を飲むと不老不死になれると言われていた。大樹の恵みの結晶である金のりんごも、元を辿ればウルズの泉の水から作られる。だから泉の水にも聖なる力が宿ると考えられたのだろう。
だがある時、泉の水を手に入れようとこの周囲で人々が争ったために、泉の水が血で濁ってしまった。
それを金のりんごの守護者である聖獣フェルニルが許すはずもない。激怒したフェルニルは争う人々を残らず泉に放りこむと、その水を骨まで溶かす灼熱の湯に変えてしまった。以来、この地の水源は生き物の口にできるものではなくなった。
ただ、その後も大樹に清浄な水が届くことから、フェルニルは人々の肉体と共に泉の水を浄化したのだといわれた。フェルニルの恐ろしさと偉大さを伝える逸話の一つだ。
遠くに戦の喧騒が聞こえるだけで、岩場は静まり返っている。フェルニルの逸話から人々はこの地を恐れて近寄らない。そうでなくとも人の骨をも溶かすような熱湯がどこから噴き出るかもわからない危険な場所だ。
闇の中に湯気が立ち込めて視界が悪く、足元には不規則に岩が突き出ている。人の姿に変化したイツキが手を取ってくれなければ一歩も進めなさそうだった。
やがてイツキは立ち止まって屈みこむ。
「これが大樹の水源。ウルズの泉です」
イツキが示したところには、ジーンが両腕を広げたくらいのくぼみがあった。
「思っていたより小さいのですね」
「これは表面に現れている部分に過ぎませんから。下には広大な水脈があるのです」
ジーンの向かい側でイツキがくぼみの水に手を浸す。ジーンはびくりとしたが、イツキは大丈夫というように頷いて見せた。
そろそろとジーンもくぼみの湧水に手を伸ばす。
「冷たい」
それは氷の海の水のように、ジーンの手を冷やした。ジーンは言葉を失ったが、イツキを見上げて問いかける。
「ここで言霊を告げれば、大樹中の生き物に伝わるのですね?」
イツキは頷いて一言添える。
「ほとんどの人間は言霊を理解できませんが」
ジーンは防衛戦が始まってから、生き物たちがざわついているのを感じていた。動物や植物たちは燃え上がる炎と人々の喧騒に、何が起きたのかもわからず混乱しているのだ。
(せめて、私ができることをしよう)
ジーンはウルズの泉に両手を浸して目を閉じると、心の中から言霊を溢れさせた。
(落ち着いて。人々はあなたたちを傷つけようとしているわけではないの)
彼らの不安を少しでも取り除いてあげられたらと、ジーンは生き物たちに声を届けることにしたのだ。
(今は身を潜めて、朝を待って。戦は必ず終わる時が来るから)
ジーンを取り巻く言霊をますます強く感じる。不安と恐怖の声が混ざり合って、ジーンに訴えかけてくる。
(大丈夫だよ。私はここにいる)
繰り返し言霊を送っている内に、ジーンは自分がどこにいるのかも忘れかけていた。
イツキに手を掴まれて、ジーンは我に返る。ジーンは気づけば汗をびっしょりとかいて、熱に浮かされたように手が震えていた。
「これくらいになさってください。あなたが蝕まれてしまう」
イツキはジーンの手を泉から引き抜く。
「あなたの心が穏やかであるのが何より大切なこと。あなたの望むまま、命じればよいのです」
ジーンの手を両手で掴んで、イツキはためらわずに告げる。
「嵐を呼んで雷を落とすことも、私がしたように地下深くに眠る火で人々を焼きつくすこともできます。そのすべが思い出せないのなら、私に一言命じてください」
ウルズの泉のように冷たい手が、ジーンの手を包み込んでくれる。
「ベルギナでもイグラントでも、私があなたの敵を滅ぼしましょう」
「……私」
ジーンはまだ震える手を見下ろしながら口を開く。
「何が私の敵なのか、わからないのです」
戦は恐ろしく、それに翻弄される生き物たちを守りたいとは思った。だが誰を憎んでいいのか、ジーンにはわからなかった。
「それにとても怖いのです」
ジーンを焦らせることなく、イツキはジーンの言葉が出てくるのをじっと待ってくれている。
「命はこの世界をゆっくり巡っていると聞きました。でも私は命の流れのことをよく知らなくて、どこで何がつながっているのかわからない」
ジーンが泉の水に細い指先で触れると、小さな波紋が生まれる。それを見つめながらジーンは言葉を続ける。
「嵐を起こしたら、どこかで水が絶えて苦しむ生き物たちがいるかもしれない。命の流れに淀みができてしまうかもしれない。だから」
今はこのくらいしかできないと、ジーンは呟く。途方に暮れたように黙りこくるジーンを、イツキは見つめていた。
「あなたの御心のままに」
手を引いて、イツキはジーンを助け起こす。
「ですが、どうかご自身の力を恐れないで。あなたの力は自然界に元々備わっているもの。あなたがそれをどのように使おうと、私たちは受け入れます」
イツキは空を仰ぐ。折れてしまいそうなほど細い月が傾いて来ていた。
「夜が明けぬ内に戻りましょう」
「あ、少しお待ちください」
タカの姿に戻ったイツキの前で、ジーンは辺りを見回す。
「ここのどこかの水源は、ベルギナにも続いているのでしょう。でしたら、ベルギナの生き物たちにも言霊を……」
ベルギナの生き物たちの身を案じたジーンに、イツキは首を横に振る。
「それはできません。お乗りください」
イツキの声が有無を言わさない調子だったので、ジーンは迷いながらもイツキの背中に乗った。
「ごめんなさい。敵国の生き物に言霊を送ることは、イツキさんには不快なことですよね」
「いいえ。そうではないのです」
雲が晴れて月灯りが差しこむ空に飛び立ちながら、イツキは苦い口調で告げる。
「ベルギナの地には精霊の呪いが満ちていて、言霊が届かないのです」
「精霊の呪いが?」
「月の方角をご覧ください。あちらがベルギナです」
月が出ている右の方面を見やって、ジーンは息を飲む。
月の光で照らしだされた先は、枯れ果てた木々がぽつぽつと立っているだけだった。大樹の恵みで潤うイグラントのすぐ先にあるにもかかわらず、生き物の気配すら乏しい荒れ地しかない。
痛々しささえ感じさせる大地を見て、ジーンは喉を詰まらせた。
「かつてベルギナにも精霊がおりました。人々に信仰され、愛された存在でした。ですが次第に人々の信仰が変わっていったのです」
イツキは金色の瞳に暗い光を宿しながら、前方を睨む。
「ベルギナは木の国と違い、天候が不安定で土地が貧しいのです。そのことは精霊には変えようもなかったのですが、人々は豊かな恵みを要求し、それを与えない精霊を呪うようになりました。……そしてついに、彼らは神を求めてしまったのです」
「か……」
ジーンは神という言葉を口にしようとしたが、できなかった。それは言葉にしようとすると、ジーンの喉を凍りつかせてしまう。
「前の世界でも聞きました。……怖いものですね」
何度か呼吸をして、ようやくジーンの口から言葉が零れる。
イツキはうなずき返して言う。
「神への信仰は精霊への信仰を蝕んでしまうのです。神は精霊を殺します」
息を呑んだジーンに、イツキは言葉を続けた。
「ベルギナの精霊も神への信仰に蝕まれて消えてしまいました。その時、自らを破滅に追い込んだ人々を恨み、ベルギナ中に呪いをまき散らしたのです。呪いは災厄となって数多の生き物の命を奪い、あのような姿になってしまったのです」
ジーンは荒れ果てたベルギナの土地を見つめながら、悲しみが押し寄せるのを感じた。
「ベルギナにも聖獣様がいるのでしょうか?」
「ええ。確か灰色の目をした、屈強なイノシシでした。ですがベルギナの精霊が消えて五十年は経っておりますから、おそらくはもう……」
イツキが口にしなかった言葉の先を察して、ジーンは俯いた。
空には荒れ狂う波のように人々の怒号が響く。耳を覆いたくなるような陰惨な音も聞こえて、ジーンは苦しさに顔を歪めた。
――助けて。
耳に届いた声に、ジーンは身じろぎをする。
「どうされましたか?」
「今、確かに」
上空からでは人々の言葉は耳で判別がつくものではなく、動物や植物の言霊も混ざり合って曖昧だ。しかしジーンの耳にははっきりと救いを求める声が響く。
「どこ?」
ジーンは身を乗り出して懸命に声の元を知ろうとする。イツキは体を水平に整えながら言った。
「ジーン、あまり身を乗り出すと」
イツキの言葉は唐突に途切れる。凍りつくように押し黙った後、イツキは月の沈む方向を睨んだ。
「……この気配」
イツキの見つめる先にジーンも視線を向ける。明けゆく空の下、欠けた月の沈んでいく前方に何かざわめく気配を感じた。
風に乗って腐臭が漂ってくる。体中をおぞましいものが這いまわるような感覚がして、ジーンは身を引いた。
ベルギナ軍は一旦城壁から兵を引いたように見えた。だがその代わりに巨大な荷台に乗せて、鉄の檻を引き出してきた。
鉄の檻の格子が上がるのと同時に、そこから全身に黒い粘液をまとわせた巨大なものが走りだす。
イツキは声を震わせて怒る。
「なんという愚かなことを。あれは人が使役できるものではないのに!」
イツキは翼を広げるなり方向転換する。ジーンの体は自分のものではないように震え出していた。
大樹の枝の上にジーンを下ろすと、イツキは人の姿に変化する。
「ここに隠れていてください。あれは翼を持ちませんから、樹上は安全です」
イツキは木の上から飛び降りようと身を屈めた。彼の手を、ジーンは反射的に掴む。
「ジーン?」
「……逃げてください」
ジーンは震えながら声を振り絞る。
「イツキさんの翼なら遠くに逃げられます。こんなに強い呪い、イツキさんでも飲みこんでしまいます。早く、遠くに……!」
ベルギナが仕向けた魔獣はベルギナを覆った呪いを巻き込んで膨れ上がり、本来の姿のイツキすらも飲み込むほどの巨体と化していた。たった一体の魔獣の禍々しい気配は大気を濁らせて、イグラント中の生き物が悲鳴を上げているのが聞こえる。
「だからこそ早く討伐する必要があるのです」
「でも!」
「ジーン。私は死にません」
ジーンの足元に跪いて、イツキはジーンの服の裾に口づけた。
「ここに至宝があるのに、その御前で聖獣が倒れるわけがないでしょう?」
口元に微笑みを浮かべて、イツキは大樹の下に向かって飛び下りた。