初恋カレイドスコープ

 吐いて流してをさんざん繰り返して、少しずつ頭がクリアになってきた。広々とした洗面台で口をきれいに洗い流す。崩れた化粧は……直せないけど。

「すみません、ご迷惑をおかけしました」

 せめてもの抵抗のつもりで髪をきっちり結び直した。これでもう私は元通り。秘書の高階凛の出来上がりだ。

 バスローブ姿でベッドに横たわり、社長代理は何か言いたそうに私の顔を眺めている。ああそうだ、今の今まですっかり忘れてしまっていたけど、ここは当然ベッドなんてものはこの一つしかないんだった。

「諸々のお代金は後程支払いますので、今日は帰りま……」

「時計見てみな」

 社長代理が指さす方へ目を向ける。大きな壁掛けのアナログ時計が指しているのは……えっ、午前一時!?

「うそ……」

「本当。今日は諦めて、さっさとシャワー浴びてきなよ。下着は買えるよ、ほら」

 と、手渡された分厚いメニューを見て私は危うく卒倒しそうになる。めくってもめくっても大人のおもちゃ! 下着もあるけどこれはちょっと、隠す気のないものばっかりじゃない!!

 瞳を白黒、顔は赤青、混乱しきった私を見ながら、社長代理は肩を揺らして笑いをこらえているらしい。こ、この人はもう! 私がセクハラで訴えたら100パーセント勝てるんだからね!

「そんな心配しなくたって、別に変なことしたりしないよ。吐いてる女に興奮するような性癖は持ち合わせてないからさ」

 だから気にせずシャワーを浴びろと、社長代理は平然と言う。

 私は――

 至極当然な彼の言葉に、なぜか聞こえないふりをして、一番ましな下着を買うと黙ってシャワーへと入っていった。

 シャワーは別にすけすけとかじゃない、ごく普通の綺麗なバスルームだ。汚れた全身をくまなく洗いながらゆっくりと心を整えていく。

 髪の毛もしっかり乾かし、渋々備え付けのバスローブを身にまとってから部屋へ戻ると、社長代理はスマホを片手にすやすやと眠りこけていた。早いな。シンガポールでもそうだったけど、この人、子どもみたいに寝つきがいい。おやすみと言って電気を消して、三秒くらいで眠っていた気がする。

 大きなクイーンサイズのベッドの、わざわざ左端で眠る彼。

 私はできるだけ心を落ち着かせたまま「すみません」と一声かけて、隣へそっともぐりこむ。人肌でほのかに温められた大きな布団は心地よくて、ふかふかの枕に顔をうずめると疲れがどっと押し寄せてきた。

「玲一さん」

 声に出して呼んでみたところで、返事がないのはわかりきったことだけど。

 子どもみたいな寝顔を見つめ、私は枕に頬杖をつく。可愛い顔。女の子みたい。でも、私はこの人の誰よりも男らしい姿を知っている。

「……玲一さん」

 正直に告白します。さっきあなたに「変なことしたりしないよ」と笑いながら言われた瞬間、私、確かにがっかりしました。

 お互い初めて出会ったあの日の、熱気にまみれたシンガポールの夜を、心のどこかで――いや、心の底から期待しました。

 それは別に、身体の関係が気持ちよかったからじゃない。きっと私はとっくの昔に、心まであなたに惹かれていた。

 調子が良くて、軽薄で、――誰よりも優しいあなたのことを、本気で好きになっていた。

「……おやすみなさい」

 柔らかな髪にそうっと触れて、私は彼に背中を向ける。

 気を抜くとあふれ出しそうな想いを、胸の奥に隠し続けるために。
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