初恋カレイドスコープ

 藤沢駅まで、と一言告げて、タクシーはゆっくりと走り出す。

 社長代理と並ぶ後部座席。車窓から外を眺める横顔が、あまりにも綺麗でつい見入ってしまう。

「あの、ありがとうございました」

 小さな声でお礼を言うと、社長代理は目線だけをこちらへ向けて呆れたように苦笑した。

「次は自分で断りなよ」

 やっぱり。

 この人はきっと、私の本音を察した上で、わざわざ助けてくれたんだ。

 申し訳なさといたたまれなさと、それを遥かにしのぐ喜びにじわりと頬が熱くなる。ああ好き。本当に好き。何もかも見透かして、呆れた顔して、それでも助けてくれるあなたが好き。

「人事異動から一か月も経つのに、未だに異動した奴に頼ろうとするなんて、営業課にも困ったものだな」

「あの、私も悪いんです。今まではその、かなり率先してお酒の席に出ていたので」

「馬鹿だね、本当。誰彼構わず助けてやったところで、こっちに利益を返してくれる奴なんてほんの一握りだろうに」

 世の中は所詮ギブアンドテイクってこと? 見返りを期待できる相手だけ見極めて助けろということかしら。

 ずいぶん冷めた発想に聞こえるけど、その主張に反論するほど私は若くもピュアでもない。確かにあの先輩、飲み会の度に私を呼んで利用していたけれど、彼から何かをしてもらった経験はなかったような気がする。

(利益、か)

 私は今、社長代理に助けていただいた。

 つまり今の社長代理にとって、私は利益を返す見込みがある人間だということだ。

(私は社長代理に何を返せるだろう。この間の夜も、シンガポールでも、私はこの人から貰ってばかりだ)

 もし私が見返りのない人間だと判断されたなら、社長代理は私になんて目もくれなくなってしまうのだろうか。恐ろしい想像にぶるっと身震い。このままじゃだめだと気合を入れる。

「ところで社長代理、藤沢でのご用事とは……」

「ネイルサロンの抜き打ちチェック。うちのグループのサロンの中で、藤沢店だけが図抜けて評判悪いんだよ。だから視察……という名目で」

 そこで言葉を切り、社長代理はくしゃっと笑う。

「本当はちょっと、あの部屋から出たかったんだよね。あそこはどうも息が詰まるから」

 仕事中は怜悧な社長代理の、予想外の本音の言葉。

 まさか聞かせてもらえるとは思っていなくて、私は思わず目を丸くしてしまう。それはもちろん好意的というか、私に本音を教えてくれて嬉しいですという驚きだったのだけど、社長代理は少し恥ずかしそうに「誰にも言わないでよ」と言い添えた。

 言うわけないじゃない、こんな話。内緒にするに決まってる。

 私が胸にしまっておけば、今の言葉は二人だけの秘密にできるんだから。

「そういや、仕事とか溜まってた? 何も聞かずに連れ出しちゃったけど」

「そこまでではないので大丈夫です」

「そう? じゃあいいけど。変な残業になりそうなら言って。なんなら今から高階だけ戻ってもいいし」

「いいえ!」

 思わず声を上げた私に、今度は社長代理のほうがきょとんと目を丸くする。

 うわ、いけない。大声になりすぎた。慌てて言い訳を考えて、でも、結局何も思いつかなくて、私は両手を膝に置いたままもごもごと口ごもる。

「私も、ええと……あの部屋から、出たかったので」

 あなたと一緒にいられるのなら、そこが私のいたい場所。

 当然そんなこと言えるはずないから、あまりにも稚拙な嘘を並べるしかなかったのだけど。

 社長代理はうつむく私を大きな瞳でじっと見つめ、それから少し口元を緩めると、

「なら、よかった」

 と言って、窓の外へと穏やかな視線を投げかけた。
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