初恋カレイドスコープ
大きな駅をひとつふたつ離れると、途端にそこは異国情緒漂う景色となる。
日本ではほとんど見られない独特な形をしたモスク。歩く人々も中心部よりアラブ系の姿がぐっと増えた。
シンガポールは多国籍国家。エリアも大きく三つに分かれていて、ところどころでまったく違った国の顔を見せてくれる。
(なんか、いきなりエキゾチックになったな)
テレビでしか見たことのないカラフルな布を被った女性が、狭苦しい露店で新しい服を物色している。さっきから聞こえる不思議な声は、宗教的な歌か何かかな。嗅ぎ慣れない独特の香りは、きっとあそこの水タバコだ。
周囲をきょろきょろと眺めながら人ごみの中を歩いていると、ふいに後ろからやってきた人と身体がぶつかってしまった。すみません、と日本語で言いかけた私は、抗いがたい強い力にぐいと引き寄せられていく。
「えっ、あっ」
なに、何が起きてるの? 褐色の知らない男の人が、私の腕を鷲掴みにしてどんどん人波を進んでいく。腕が痛い。力の差がありすぎて、振り払うどころか立ち止まることすらできない。
やめて、と、叫ぼうとした。声を上げて抵抗すれば、きっと誰かが助けてくれると。
でもなぜだか、声が出ない。本能的な恐怖が脳みそをすっかり委縮させて、おそろしい想像ばかりを瞳の奥に流し込む。
抵抗するそぶりなんてみせて、殴られたらどうしよう。あるいは殺されてしまったら。
(怖い)
男に引きずられるまま、屋台の裏へ連れ込まれそうになった瞬間、
『おい』
突然、私の横をすり抜けていった男性が、褐色の人の腕を掴んで強引に足を止めさせた。聞き覚えのある声に、脳を覆っていた恐怖の糸がぱっと弾けて消えていく。
『どこ行くんだよ』
『なんだ、お前』
『なんだじゃねえよ。あんた、ベイフロント駅からずっと尾けてただろ。女一人なら適当に連れ込んでもなんとかできると思ったか?』
褐色の男は舌打ちすると、私の身体を彼に向かって放り捨てるように突き飛ばした。それから再び人ごみに紛れて、屋台の影へと消えていく。
(助かった……?)
心臓がまだバクバクしてる。
全身からドッと汗が出てきた。
おそるおそる振り返ると、私を抱き留めてくれた男性……あのお土産屋さんの男の人が、呆れたような微笑を浮かべて私の顔を見下ろしていた。
「言ったでしょ。気を付けなよって」
「すみません……」
「やっぱ追いかけてきて正解だったな。ただでさえ日本人女性は狙われやすいのに、しかも一人でうろうろしているんだから」
……言われている意味はわかる。油断していた。彼は正しい。
でも私だって……一人で来たかったわけじゃない。本当は友達と一緒のはずだった。予定だってそのつもりで組んでいた。
今までずっと押しとどめていた惨めな気持ちが沸き上がる。こんなはずじゃなかったのに。心の中のどす黒い何かが、ぼこぼこと無数の泡を立てながらお腹の中をせり上がる。
「そんな顔しないでよ。説教したくて追ってきたわけじゃないんだから」
我に返って顔を上げると、苦笑いを浮かべた彼の顔が思ったよりも近くにあった。
大きな瞳に私の顔が映る。それから、彼はゆっくり目を細めると、いかにも朗らかで人好きのする笑みにいくばくの甘みを滲ませて言った。
「一人なんでしょ? よければ俺が、シンガポールをエスコートしましょうか?」