初恋カレイドスコープ
第七章 特別な席に座る人
どかっ、とタクシーの後部座席に乗り込んできた玲一さんは、見たことがないくらい不機嫌そうに眉間にしわを寄せていた。
何か仕事で不手際があったかと、私は慌ててノートをめくる。ええと、今日はこれから東京の支社へ向かって、現地でミーティングをした後、お得意先の社長さんにお会いして……。
「頭が痛い」
苦しそうにこめかみを押さえながら、玲一さんは絞り出すような声で言う。
「頭痛薬持ってる?」
「は、はい」
確か鞄の中に、生理痛用の鎮痛剤を常に何個か入れていたはず。大急ぎで玲一さんへ渡すと、彼は水も口に含まず二錠一気に飲み込んで、それから大きなため息をついて座席に寄りかかった。
困った顔をするタクシーの運転手さんに手短に行き先を伝える。動き出した車に揺られながら、玲一さんの額にはぽつぽつと汗が浮かんでいる。
「なんなんだ、あの営業課の女は」
それは今まで一度も聞いたことのない、どす黒い憎悪を吐き捨てるような声だった。
「声がうるさい。キンキン笑うな。俺はあの声が一番嫌いなんだ」
「あの……社長代理?」
「あの女だよ、お前の同期の。人が仕事で忙しいってのにべたべたくっついてきて……」
……え? もしかして愛菜のこと?
私の顔色が変わったことに玲一さんも気づいたのだろう。少し小馬鹿にしたように、ふん、と小さく鼻を鳴らす。
「さっきたまたま廊下で会って、その時にちょっと話しかけられたんだよ。仕事の話かと思って聞いてたけど、肩を押してきたり胸を押しつけてきたり、なんなんだあいつ。いつもああなの?」
愛菜……もしかしてなりふり構わず出世しようとしているのだろうか。それともやっぱり、玲一さんのことを本気で狙っているとか?
いつもああなのと訊ねられれば、昔は違いましたという他ない。少なくとも私と友達だった頃は、そういう女を武器にしたやり口をすごく馬鹿にしていたはずだ。
「あの女の笑い声が嫌いだ」
同じ言葉を繰り返し、ふぅと玲一さんはため息を吐く。鎮痛剤が効いてきたのか、表情も少しずつ和らいできた。
なにを言うのも正しくない気がして、私は窓の外を見たまま気まずい顔で黙り込む。誰かに対してこんなに嫌悪をむき出しにする彼は初めてだ。これも私の知らない一面。……しかも、ちょっと意外な、怖い姿。
「……同期が、すみません」
結局絞り出すようにそれだけ呟いた私に、玲一さんは少し眉を上げて、
「凛ちゃんの声は良いね」
と、お世辞でもない素の調子で言った。
「私、声低いですよ」
「そこがいいんだよ。うるさくなくて、落ち着いてて」
正面を見据えたまま、玲一さんは淡々と言う。
「好きだよ」
……それは、声のことだとわかってはいるのだけど。
ぎゅんと心音が加速するのを愚かな私は止められなくて、ただ頬が緩まないよう唇を噛み締める。
これが私自身への言葉ならどれほど嬉しいことだろう。望むだけ無駄だとわかっていても、どうしてもそう思ってしまう。
私たちはそのまましばらく無言で車に揺られていたけど、ふいに左肩が重くなったと思うと、玲一さんの柔らかな茶髪が私に寄りかかっていた。私が少し驚いた顔をすると、玲一さんは体重をかけたまま上目遣いに私を見上げる。
「今夜は?」
膝に触れた指先が腿の内側を滑っていく。
私は軽く息を呑み、少しだけ腿に力を込めた。断ってしまった先日の誘いがふっと頭をよぎっていく。
少しだけ視線を泳がせながら、私がちいさく頷くと、玲一さんは満足したみたいにそのまま目を閉じた。