初恋カレイドスコープ
「あのな、昨日の今日でいきなり付き合えって言われても、俺にも準備が必要なんだから」
「え? かなり早い段階でちゃんと資料送ったはずなんだけどな。お前相手だし電話だけでもいいかなって思ったけど、今回はちゃんと真面目に依頼書も出したんだよ、俺」
「俺が資料を渡されたのは昨日の夕方、帰り際だ。あのバカ上司、相変わらず仕事がめちゃくちゃなんだから……」
苦々しげに頭を抱える弁護士さんの姿を見て、玲一さんは心の底から楽しそうに笑っている。
なんだかとても珍しい様子に、私は呆気に取られていた。仕事のときもプライベートでも、私は玲一さんと比較的長い時間を過ごしてきたつもりだった。
でも、こんなに明るく無垢な笑顔を見たのは初めてだ。今までで一番きらきら眩しい、たぶん、彼の本当の笑顔。
「あーおかしい! 相変わらず便利に使われてんだから」
ひとしきり笑ってから突然思い出したように、玲一さんは私へ目を向けると、
「ごめんね凛ちゃん。全然会話弾まなかったでしょ? こいつ、女とジャガイモの区別がつかないからさ」
と、弁護士さんを顎で指してみせた。
結構な侮辱にも怒る気配はなく、弁護士さんは名刺を一枚私に差し出してくれた。竹中黒田法律事務所、弁護士、波留樹。
(波留樹)
突然、頭の底からひとつの記憶がフラッシュみたいに蘇る。玲一さんの部屋の写真立て。あの中で幸せそうに微笑んでいたのは、確かこの人ではなかったか。
「なあ、今どうせ一人だろ? 夕飯にラーメン行こ」
「腹減ってない」
「じゃあ焼肉」
「重いだろ」
「今日泊まってく? 御殿場のビール買ってあるよ」
「じゃあ泊まる」
私の存在を完全に無視して、ぽんぽんとテンポよく始まる会話。確かに今日は会社に戻らず、このまま直行帰宅にすると最初から言っていたけれど。
「またね、凛ちゃん」
小さく手を振る玲一さんと、最低限の会釈をする波留さん。二人の背中が家路を急ぐ人々の波へ消えていく。
私は小さく片手を上げたまま、振り返りもせず消える二人をただ見つめるしかできなかった。今日は夜まで一緒にいられるかなと、本当は少し期待していた。でも、玲一さんの瞳の中には、とっくの昔に私はいなくて。
(だめだ)
あの二人のいる空間に、私が入る場所はない。
――現在『恋』はしていますか?
インタビューする女性記者の声がふっと脳裏によみがえる。引きつる口元。咳払い。一瞬うつむく横顔の闇。
誰かのために空けられていた、彼の心の特別な席。
(そっか。そういうことなんですね)
波留さんの左手の薬指にきらめくシンプルな指輪を思い出し、私はきつく目をつむると二人に背を向けて歩き出した。