初恋カレイドスコープ
タイル張りの床を覆うオリエンタルなカーペット。
老若男女さまざまな姿で、静かに賑わうカウンター。
ホテルの中にあるそのバーは、由緒正しい調度品に反し、ラフな格好をした現地の人々が日常のお酒を楽しむ場所らしい。我が物顔で中へと進む玲一さんの後ろへ続き、私はきょろきょろ見回しながらそうっと床へ足を伸ばす。
「あの、床に散らばるピーナッツの殻は……?」
「ここの伝統でね。お酒と一緒にピーナッツが出るんだけど、殻は全部床に捨てるんだよ。シンガポールで唯一ポイ捨てが許される場所」
慣れた様子でカウンターの丸椅子に腰掛けた玲一さんは、バーテンダーに早口の英語で何かを注文したようだ。バーテンダーの青年は私の方をちらと見て、それから銀色のシェイカーを取り出しドリンクを次々に注ぎ込む。
「雰囲気いいでしょ? 俺のお気に入りなんだ。……ああ、ごめん、聞き忘れてた。甘めの酒って得意?」
「甘いのは好きです」
「そっか、よかった。シンガポールに来たなら、ぜひとも味わってもらいたい有名なカクテルだよ。シンガポール・スリングっていうんだけど」
底の深いカクテルグラスに、鮮やかなバラ色のカクテルがなみなみと注がれていく。
「今から百年くらい前、女性が人前で酒を飲むのが禁忌とされていた時代があった。そこでこのロング・バーのバーテンダーが、女性にも気兼ねなく飲んでもらえるようにって、フルーツジュースそっくりな見た目のカクテルを考案したんだ」
「へえ、素敵ですね」
「土産話にちょうど良いでしょ。ロング・バーのシンガポール・スリングといえば、知ってる人は知ってるからさ」
グラスの縁にパインとチェリー。そしてジュースらしくストローを指して、バーテンダーが私たちの前にそれぞれのグラスを差し出した。
少し顔を近づけるだけで、甘酸っぱい香りがふわっと漂う。わあ、と無邪気に目を丸くした私を見て、玲一さんは満足そうに大きな瞳を細めている。
「綺麗ですね。えっと、いただきます」
「うん」
私たちは顔を見合わせ、どちらともなく微笑みあうと、それぞれのグラスを片手に無言で視線を絡ませた。音の鳴るビールの乾杯とは違う、静かで艶やかな大人の挨拶。薄暗い照明に照らされたカクテルの甘いバラ色が、グラスを傾ける彼の姿をいっそう妖しく蠱惑的に見せる。
縁に触れる彼の唇。ぐいっとグラスをあおるような予想外に男らしい飲み口に、ちょっと驚いたのは内緒だ。上下する喉仏。みるみるうちにカクテルが減って、彼の中へと吸い込まれていく。
玲一さんの横顔ばかりをじろじろ見ている自分に気づき、私は羞恥を振り切るみたいに自分もカクテルへ口付けた。口いっぱいに広がる味は、脳にガツンと来るほどの甘さ。でも後味があまりにも爽やかでついつい口が進んでしまう。
「美味しい!」
「よかった、喜んでもらえて」
あっという間にグラスを空にした玲一さんは、次の一杯をバーテンダーに頼んでいるようだ。お酒、強いのかな。かっこいい……なんて、あまりにもナチュラルに出てきた言葉に自分で顔が赤くなる。
「めちゃくちゃ甘いからね。飽きたら違うやつ頼んでもいいよ」
「いえ、美味しいので全部飲めます。えっと、……え、これ一杯で3500円するんですか!?」
「高いよねえ、観光地価格かな。あ、金は払うからそこは気にしないで」
いやいやいや、そういうわけにはいかない。道中のタクシー代だって全部彼が払ってくれたんだ。そのお金だって本当なら私が出さなきゃいけないはずなのに、彼はにこにこ笑うばかりで頑として受け取ってくれなかった。
払います、いらないよ、の押し問答を繰り返す私たちを、バーテンダーがグラスを拭きながら呆れた顔で眺めている。シンガポールドル札を無理やり押しつけようとした私の手を、玲一さんは軽々掴み、
「俺から誘ったんだから、俺が払うのは当然でしょ」
と、ぺしっとおでこを叩かれてしまった。