初恋カレイドスコープ



「それから俺はプールの類をいっさい受け付けられなくなった。プールサイドに立つだけで、あの日の記憶がフラッシュバックして身体がまったく動かなくなる。水に浸かると息が止まって、一時期は風呂に入るのも怖かった。風呂はまあ、さすがに今は平気だけど、プールの方は……まだだめでさ」

 そこで一度言葉を切り、玲一さんは窓の外を眺めて息を吐いた。軽く伏せられたまぶた。ふ、とささやかな自嘲が漏れる。

「……ごめん。やっぱ、凛ちゃんに聞かせる話じゃなかったね」

「どうしてですか?」

「だって凛ちゃん、もう何度も俺に抱かれてるんだよ? 女は情報に濡れる生き物だからね。大企業の社長代理とカナヅチのいじめられっ子じゃ、感じ方だって変わってくるでしょ」

 人を小馬鹿にした皮肉っぽい笑みは、以前にも一度見たことがあった。わざと突き放すような彼の目線を、私は真正面から受け止める。

「今の話を伺ったからって、何が変わるわけでもありません」

 それから、静かに付け足した。

「どっちも玲一さんじゃないですか」

 玲一さんはわずかに開いた唇を、ほんの一瞬、何か言いたげに歪んだ形へ震わせた。

 彼はそのまま目を逸らし、眉間にしわを寄せて目を伏せる。固く結んだ唇は結局何を言うこともなく、

「……そっか」

 と、かすかな微笑みだけが漏れて消えた。

 車内に再び沈黙が戻った。タクシーは黙々と帰路を進み、あたりが真っ暗になってから会社の目の前で静かに停まる。

 玲一さんが先に車を降り、私は領収書を受け取ってから続く。薄く雲のかかった夜空には細い月が浮かんでいる。玲一さんは両手をポケットに入れ、静かにそれを見上げていた。

「波留さんとは、その頃からのお付き合いなんですか?」

 私の突然の質問に、玲一さんは少しだけ目を丸くした。私の表情が湖面のように静まり返っている様を見て、彼は「そうだね」と言ってから、ゆっくり身体ごと向き直る。

「いじめは結局なくならなかったけど、少なくとも波留といるときは、あいつらも何もしてこなかったから。中学、高校、大学までずっとくっついていって、そのまま今に至るって感じ」

「そうですか」

 私は頷き、口元だけで微笑んだ。

「素敵な方ですね」

 玲一さんは――もう一度、ほんのわずかに瞠目してから、

「うん」

 と言って、はちみつみたいにはにかんだ。

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