初恋カレイドスコープ
*
『電話なんて珍しい。どうしたの? 本当に会いたくなっちゃった?』
そろそろ十一時を過ぎようとする頃なのに、玲一さんは数コールも待たずすぐに電話に出てくれた。
またお酒でも飲んでいるのかな。上機嫌な声を聞いて、彼に噛まれた喉の傷痕がきりきりと甘く疼き出す。
「玲一さん」
私の声の微妙な重さに、きっと彼なら気づいたはずだ。数秒の間を置いて『どうしたの』ともう一度、今度は低いトーンの声が私の様子を伺ってくる。
「私……玲一さんを、卒業しようと思うんです」
返事の代わりに聞こえたのは、彼が静かに息を呑む音だった。
胸が締め付けられるように痛い。今ならまだ引き返せると、私の心の弱い部分がひっきりなしに叫んでいる。
でも私はその声を振り払い、鏡の中の自分を睨みつける。これを最後にするのだと、覚悟を決めてきたはずだ。
「本当の玲一さんを知りたくて、セフレとしてだけど一緒に過ごして……私、玲一さんを好きになったことは、間違いじゃなかったと思いました。口先では悪ぶったことを言うけど、本当のあなたもとても素敵な、優しくて真面目で、誰にでも自慢できる最高の人だと思います」
『…………』
「だからこそ、私は……あなたと過ごした時間を全部、私自身の成長に繋げて、そろそろ次に進まなきゃいけないと思うんです。いつまでも立ち止まっていないで、きちんと前を向いて、なりたい自分の未来の姿をしっかり頭に思い描いて」
そこで一拍置き、私は全身の空気を吐き出すように言う。
「自分の幸せを、探しに行こうと思うんです」
玲一さんは、黙っている。彼の静かな息遣いだけが、電話の向こうから淡々と、風の音みたいに聞こえてくる。
やがて長い沈黙の後、彼はひどく落ち着いた声で、
『凛ちゃんは、本当の恋を見つけたの?』
と、私に訊ねた。
「まだ、わかりません」
できるだけ感情を込めず、私は静かな声で言う。
「でも、そうなればいいなと思っています」
電話の向こうの玲一さんが、ほんのかすかに笑うのがわかった。
『そっか』
ぎし、と、スプリングの軋む音がする。獣のように求めあった、あの二段重ねのマットレス。
二人で話した夜の秘書室。肩を寄せ合ったタクシーの車内。一緒に食べたラーメン屋さん。きらきらしたシンガポールの夜。
彼と過ごした数多の時が、走馬灯のようによみがえる。本当にたくさん笑いあって、たくさんのことを教えてもらった。
『今まで、ありがとう』
「私こそ」
震える喉に感情が詰まる。
「本当に……ありがとうございました」
最後の最後にみっともない声を聞かれてしまうのが恥ずかしくて、私は逃げるようにそれだけ言うと、急いで通話をオフにした。自分から話を終えたはずなのに、部屋の沈黙が耳に痛む。自分の心臓の音ばかりが、馬鹿みたいに大きく響いている。
ひとりぼっちの部屋の中では、やっぱり心は寒いままで――シンガポール・スリングの甘いくちどけが記憶の中で儚く消えた。
『電話なんて珍しい。どうしたの? 本当に会いたくなっちゃった?』
そろそろ十一時を過ぎようとする頃なのに、玲一さんは数コールも待たずすぐに電話に出てくれた。
またお酒でも飲んでいるのかな。上機嫌な声を聞いて、彼に噛まれた喉の傷痕がきりきりと甘く疼き出す。
「玲一さん」
私の声の微妙な重さに、きっと彼なら気づいたはずだ。数秒の間を置いて『どうしたの』ともう一度、今度は低いトーンの声が私の様子を伺ってくる。
「私……玲一さんを、卒業しようと思うんです」
返事の代わりに聞こえたのは、彼が静かに息を呑む音だった。
胸が締め付けられるように痛い。今ならまだ引き返せると、私の心の弱い部分がひっきりなしに叫んでいる。
でも私はその声を振り払い、鏡の中の自分を睨みつける。これを最後にするのだと、覚悟を決めてきたはずだ。
「本当の玲一さんを知りたくて、セフレとしてだけど一緒に過ごして……私、玲一さんを好きになったことは、間違いじゃなかったと思いました。口先では悪ぶったことを言うけど、本当のあなたもとても素敵な、優しくて真面目で、誰にでも自慢できる最高の人だと思います」
『…………』
「だからこそ、私は……あなたと過ごした時間を全部、私自身の成長に繋げて、そろそろ次に進まなきゃいけないと思うんです。いつまでも立ち止まっていないで、きちんと前を向いて、なりたい自分の未来の姿をしっかり頭に思い描いて」
そこで一拍置き、私は全身の空気を吐き出すように言う。
「自分の幸せを、探しに行こうと思うんです」
玲一さんは、黙っている。彼の静かな息遣いだけが、電話の向こうから淡々と、風の音みたいに聞こえてくる。
やがて長い沈黙の後、彼はひどく落ち着いた声で、
『凛ちゃんは、本当の恋を見つけたの?』
と、私に訊ねた。
「まだ、わかりません」
できるだけ感情を込めず、私は静かな声で言う。
「でも、そうなればいいなと思っています」
電話の向こうの玲一さんが、ほんのかすかに笑うのがわかった。
『そっか』
ぎし、と、スプリングの軋む音がする。獣のように求めあった、あの二段重ねのマットレス。
二人で話した夜の秘書室。肩を寄せ合ったタクシーの車内。一緒に食べたラーメン屋さん。きらきらしたシンガポールの夜。
彼と過ごした数多の時が、走馬灯のようによみがえる。本当にたくさん笑いあって、たくさんのことを教えてもらった。
『今まで、ありがとう』
「私こそ」
震える喉に感情が詰まる。
「本当に……ありがとうございました」
最後の最後にみっともない声を聞かれてしまうのが恥ずかしくて、私は逃げるようにそれだけ言うと、急いで通話をオフにした。自分から話を終えたはずなのに、部屋の沈黙が耳に痛む。自分の心臓の音ばかりが、馬鹿みたいに大きく響いている。
ひとりぼっちの部屋の中では、やっぱり心は寒いままで――シンガポール・スリングの甘いくちどけが記憶の中で儚く消えた。