初恋カレイドスコープ
*
曖昧な関係に終止符を打っても、私は未だ私のまま。
寝て起きればまた朝が来る。顔を洗って、髪を結んで、いつものスーツに着替えをして。
ちょうど改札を通ったとき、人混みの合間に頭ひとつ分大きな彼の姿を見つけた。私が声をかけるより早く、こちらの姿に気づいた彼が、ぱっと表情を明るくして大きく手を振ってくれる。
「凛さん、おはようございます!」
「おはよう、松岡くん」
ナチュラルに出てきたその呼び名は、どうやら彼のお気に召さなかったようだ。
駆け足で隣に並んだ彼は、むっと唇をとがらせて、じっとりとした非難の瞳で私の顔を覗き込んだ。
「仕事中以外は名前で呼んでって、お願いしたじゃないですか」
……ああ、そうだった。
ひとつの繋がりが終わると同時に、私に生まれた新しい繋がり。
私は今、この松岡颯太くんと――『お付き合いのお試し期間』をしているんだった。
「ごめん。……颯太、くん?」
騒々しい朝の足音にほとんどかき消されてしまうほどの小さな声で、やっと呼んだ彼の名前。
颯太くんはにっこり笑うと、
「嬉しいです」
と言って、見えない尻尾をぶんぶん振った。
『お付き合いのお試し期間』とは。
友達よりもちょっと親しく、でも恋人と呼べるほどの仲じゃない。
お互い適度な距離を保って、少しずつ意識を深めながら、うまくいきそうなら正式にお付き合い。ちょっとダメそうなら無理せず友達に戻る。
最初に提案されたときは正直よくわからなかったけど、言ってしまえばセックスをしないセフレみたいなものらしい。(この発想がすぐ出てくるあたり私も悪くなったものだと思う)普通のセフレよりなんとまあ健全かつ建設的な間柄だろう。
――先輩が俺のこと、弟か犬としか見てくれていなかったことは知ってます。
私の目をまっすぐ見つめ、颯太くんは静かに言った。
――だからまずは俺のこと、一人の男として見てほしいんです。今すぐ返事が欲しいとは言いません。ゆっくりと時間をかけて、心の傷が癒えてからで。……その時まで、俺、ずっと待っていますから。
見慣れた可愛い後輩の顔が知らない男の人みたいに見えて、私は当然驚いた。そして、正面から向けられる熱い目線に、少しだけドキッともした。
だって、営業課で一緒だった頃からずっと好きだったと言われてしまったら……私は彼の片思いを何年無視していたのだろう? そしてその間、彼はどれだけ一途に私を見ていてくれたのだろう?
(だからってすぐに付き合う勇気はないけれど、正直、嫌ではなかったな)
ビルに入ってから颯太くんと別れ、エレベーターで秘書室へ向かう。自分のデスクで鞄の中身を整理していると、始業ぎりぎりに社長代理が部屋へ入ってきた。
「おはようございます」
鮫島先輩のきれいな声に合わせ、秘書たちがいっせいに挨拶をする。
無表情で歩いてきた社長代理は、まっすぐ前を見据えたまま、
「おはよう」
とだけ言って、そのまま奥の社長室へと姿を消した。
(……仕事中の社長代理がそっけないのはいつものことだけど)
朝の挨拶の時点で目が合わないのは久々な気がする。思えばここ最近はずっと――少なくとも関係が始まってからは――挨拶の時に必ず一瞬、私と目線を合わせてくれた。
今までの私はその些細な絡みを当然のことのように思っていたけど、言ってしまえばあれはセフレという関係に付随するものだったのだろう。関係そのものが終わってしまえば、私を特別視する必要もない。
(…………)
自分から言い出したことのくせに、なにを一丁前に傷ついているのかと、心の中で叱咤する。
恋人になれない人の隣でいつまでも立ち止まっている暇はない。私自身そう思ったから、社長代理との関係を清算し、前へ進む決意をしたはずだ。
「高階さん、ちょっと」
「はい!」
勢い余って響き渡るほどの大声で返事をした私を見て、鮫島先輩はちょっと眉を上げると「気合入ってるわね」と言ってうっすら微笑んだ。
曖昧な関係に終止符を打っても、私は未だ私のまま。
寝て起きればまた朝が来る。顔を洗って、髪を結んで、いつものスーツに着替えをして。
ちょうど改札を通ったとき、人混みの合間に頭ひとつ分大きな彼の姿を見つけた。私が声をかけるより早く、こちらの姿に気づいた彼が、ぱっと表情を明るくして大きく手を振ってくれる。
「凛さん、おはようございます!」
「おはよう、松岡くん」
ナチュラルに出てきたその呼び名は、どうやら彼のお気に召さなかったようだ。
駆け足で隣に並んだ彼は、むっと唇をとがらせて、じっとりとした非難の瞳で私の顔を覗き込んだ。
「仕事中以外は名前で呼んでって、お願いしたじゃないですか」
……ああ、そうだった。
ひとつの繋がりが終わると同時に、私に生まれた新しい繋がり。
私は今、この松岡颯太くんと――『お付き合いのお試し期間』をしているんだった。
「ごめん。……颯太、くん?」
騒々しい朝の足音にほとんどかき消されてしまうほどの小さな声で、やっと呼んだ彼の名前。
颯太くんはにっこり笑うと、
「嬉しいです」
と言って、見えない尻尾をぶんぶん振った。
『お付き合いのお試し期間』とは。
友達よりもちょっと親しく、でも恋人と呼べるほどの仲じゃない。
お互い適度な距離を保って、少しずつ意識を深めながら、うまくいきそうなら正式にお付き合い。ちょっとダメそうなら無理せず友達に戻る。
最初に提案されたときは正直よくわからなかったけど、言ってしまえばセックスをしないセフレみたいなものらしい。(この発想がすぐ出てくるあたり私も悪くなったものだと思う)普通のセフレよりなんとまあ健全かつ建設的な間柄だろう。
――先輩が俺のこと、弟か犬としか見てくれていなかったことは知ってます。
私の目をまっすぐ見つめ、颯太くんは静かに言った。
――だからまずは俺のこと、一人の男として見てほしいんです。今すぐ返事が欲しいとは言いません。ゆっくりと時間をかけて、心の傷が癒えてからで。……その時まで、俺、ずっと待っていますから。
見慣れた可愛い後輩の顔が知らない男の人みたいに見えて、私は当然驚いた。そして、正面から向けられる熱い目線に、少しだけドキッともした。
だって、営業課で一緒だった頃からずっと好きだったと言われてしまったら……私は彼の片思いを何年無視していたのだろう? そしてその間、彼はどれだけ一途に私を見ていてくれたのだろう?
(だからってすぐに付き合う勇気はないけれど、正直、嫌ではなかったな)
ビルに入ってから颯太くんと別れ、エレベーターで秘書室へ向かう。自分のデスクで鞄の中身を整理していると、始業ぎりぎりに社長代理が部屋へ入ってきた。
「おはようございます」
鮫島先輩のきれいな声に合わせ、秘書たちがいっせいに挨拶をする。
無表情で歩いてきた社長代理は、まっすぐ前を見据えたまま、
「おはよう」
とだけ言って、そのまま奥の社長室へと姿を消した。
(……仕事中の社長代理がそっけないのはいつものことだけど)
朝の挨拶の時点で目が合わないのは久々な気がする。思えばここ最近はずっと――少なくとも関係が始まってからは――挨拶の時に必ず一瞬、私と目線を合わせてくれた。
今までの私はその些細な絡みを当然のことのように思っていたけど、言ってしまえばあれはセフレという関係に付随するものだったのだろう。関係そのものが終わってしまえば、私を特別視する必要もない。
(…………)
自分から言い出したことのくせに、なにを一丁前に傷ついているのかと、心の中で叱咤する。
恋人になれない人の隣でいつまでも立ち止まっている暇はない。私自身そう思ったから、社長代理との関係を清算し、前へ進む決意をしたはずだ。
「高階さん、ちょっと」
「はい!」
勢い余って響き渡るほどの大声で返事をした私を見て、鮫島先輩はちょっと眉を上げると「気合入ってるわね」と言ってうっすら微笑んだ。