初恋カレイドスコープ
*
その日、秘書室のミーティングテーブルには、いつもより少し張り詰めた空気が漂っていた。
テーブルを挟んで向かい合うのは、社長代理と鮫島先輩。鮫島先輩は社長代理の側へ、一枚の紙を静かに差し出す。
「こちらがその、株主からの質問状になります」
質問状? 株主総会の時期でもないのに?
聞いちゃいけないと思いながらも、仕事をしながらつい聞き耳を立ててしまう。社長代理は紙を見つめて、何やらため息を吐いているようだ。
「こちらについて、お心当たりは」
「ありますよすみませんね。でももう大昔に別れた相手だ。書いてある内容はほとんど嘘」
不機嫌そうに紙を叩く社長代理に、鮫島先輩の笑みが深くなる。不穏な空気。私以外の秘書の先輩方も、少しそわそわしているみたい。
「ちなみにどのあたりが真実になるので?」
「そんなことお前に教えるかよ」
「まあ、怖い。ふふふ……しかし、回答するには多少はお教えいただかねばなりませんからね」
艶やかに微笑む鮫島先輩が、ゆっくりとこちらを向いて手招きした。しばらくきょとんとしていた私は、少ししてから自分が呼ばれているのだと気づき、慌てて小走りでテーブルへ向かう。
「おい、鮫島」
「回答の作成を彼女にも手伝ってもらおうと思いまして。ね、高階さん」
わけもわからないまま鮫島先輩の隣へ座らされた私は、社長代理の手元のものと同じ紙を渡され愕然とした。
質問状、と厳かに書かれたそれは、どうやら弊社の有力な株主から送られてきたものらしい。以下についての真偽を問う、とのことで、女性に人気のおしゃれなSNSのスクリーンショットが張り付けてある。
内容は……どうやら、女性からの告発のようだ。かつて椎名玲一と恋仲だったが、この男の夜はひどいものだったと。殴られたり首を絞められたり、行為中の暴力は当たり前。中絶を強制されたこともある。関係が冷めてきた頃には他の男の相手を強制され、このままでは殺されると思い命からがら逃げだしたと。
ご丁寧に付けられた写真には、薄暗い部屋で眠る社長代理の穏やかな顔が映っている。私も知っている彼の寝顔。自分だけの宝物ではなかったと、わかってはいたけどやはり複雑な気持ちになってしまう。
「まず一つ目、この女とは付き合ってない。知人の紹介で顔を合わせて、一緒に酒を飲みはした。二つ目、俺は女を殴れない。一華ちゃんに厳しく躾けられたからね。三つ目、俺は必ず避妊する。で四つ目、女衒なんてしない」
……逆に言えば、この人と寝たこと自体は否定しないわけだ。胸に湧き上がるもやもやを、奥歯を噛んでぐっと堪える。
(いや、今はもうこんなことで苦しむ必要はないはずだ)
私と社長代理は赤の他人。
社長代理が昔どんな人と親しくしていたとしても、今の私には何の関係もないはずじゃないか。……そうだよね?
「では、名誉棄損で訴えても問題はなさそうですね」
「当たり前だろ。きっちりやれ」
「わかりました。……では社長代理。個人的にもうひとつ、確認させていただきたいことが」
そう言って、鮫島先輩は胸ポケットから自身のスマホを取り出した。その画面を覗き込んだ社長代理の表情が、唐突に霜が降りたみたいに一瞬で凍りつく。
「こちらのお写真については、どのように対処いたしましょうか?」
それは――別のSNSの画面だった。『卒アルでこんなやつ見つけた』と言って、少年の顔写真が載せられている。下部の数字はこの投稿がどれだけ拡散されたかを示していて、数字だけ見れば文句なしに「バズっている」と呼べる状況だ。
くしゃくしゃ髪で、分厚い眼鏡で、肥満体型で、……今にも泣きだしそうな顔で、正面を向いているその顔は――
ガタン!
唐突な物音は、社長代理が椅子を蹴って立ち上がったからだ。両手をテーブルに突き、固く唇を結んだ彼は、完全に血の気の引いた顔で虚ろな目を泳がせている。
「……少し考える」
聞き取れないほど低い声でそう短く言い捨てて、社長代理はきびすを返すと社長室へと戻っていった。
鮫島先輩は微笑を浮かべ、スマホを懐へしまい込む。
私一人が不安の中で、社長代理の消えた扉をただ茫然と見つめていた。
その日、秘書室のミーティングテーブルには、いつもより少し張り詰めた空気が漂っていた。
テーブルを挟んで向かい合うのは、社長代理と鮫島先輩。鮫島先輩は社長代理の側へ、一枚の紙を静かに差し出す。
「こちらがその、株主からの質問状になります」
質問状? 株主総会の時期でもないのに?
聞いちゃいけないと思いながらも、仕事をしながらつい聞き耳を立ててしまう。社長代理は紙を見つめて、何やらため息を吐いているようだ。
「こちらについて、お心当たりは」
「ありますよすみませんね。でももう大昔に別れた相手だ。書いてある内容はほとんど嘘」
不機嫌そうに紙を叩く社長代理に、鮫島先輩の笑みが深くなる。不穏な空気。私以外の秘書の先輩方も、少しそわそわしているみたい。
「ちなみにどのあたりが真実になるので?」
「そんなことお前に教えるかよ」
「まあ、怖い。ふふふ……しかし、回答するには多少はお教えいただかねばなりませんからね」
艶やかに微笑む鮫島先輩が、ゆっくりとこちらを向いて手招きした。しばらくきょとんとしていた私は、少ししてから自分が呼ばれているのだと気づき、慌てて小走りでテーブルへ向かう。
「おい、鮫島」
「回答の作成を彼女にも手伝ってもらおうと思いまして。ね、高階さん」
わけもわからないまま鮫島先輩の隣へ座らされた私は、社長代理の手元のものと同じ紙を渡され愕然とした。
質問状、と厳かに書かれたそれは、どうやら弊社の有力な株主から送られてきたものらしい。以下についての真偽を問う、とのことで、女性に人気のおしゃれなSNSのスクリーンショットが張り付けてある。
内容は……どうやら、女性からの告発のようだ。かつて椎名玲一と恋仲だったが、この男の夜はひどいものだったと。殴られたり首を絞められたり、行為中の暴力は当たり前。中絶を強制されたこともある。関係が冷めてきた頃には他の男の相手を強制され、このままでは殺されると思い命からがら逃げだしたと。
ご丁寧に付けられた写真には、薄暗い部屋で眠る社長代理の穏やかな顔が映っている。私も知っている彼の寝顔。自分だけの宝物ではなかったと、わかってはいたけどやはり複雑な気持ちになってしまう。
「まず一つ目、この女とは付き合ってない。知人の紹介で顔を合わせて、一緒に酒を飲みはした。二つ目、俺は女を殴れない。一華ちゃんに厳しく躾けられたからね。三つ目、俺は必ず避妊する。で四つ目、女衒なんてしない」
……逆に言えば、この人と寝たこと自体は否定しないわけだ。胸に湧き上がるもやもやを、奥歯を噛んでぐっと堪える。
(いや、今はもうこんなことで苦しむ必要はないはずだ)
私と社長代理は赤の他人。
社長代理が昔どんな人と親しくしていたとしても、今の私には何の関係もないはずじゃないか。……そうだよね?
「では、名誉棄損で訴えても問題はなさそうですね」
「当たり前だろ。きっちりやれ」
「わかりました。……では社長代理。個人的にもうひとつ、確認させていただきたいことが」
そう言って、鮫島先輩は胸ポケットから自身のスマホを取り出した。その画面を覗き込んだ社長代理の表情が、唐突に霜が降りたみたいに一瞬で凍りつく。
「こちらのお写真については、どのように対処いたしましょうか?」
それは――別のSNSの画面だった。『卒アルでこんなやつ見つけた』と言って、少年の顔写真が載せられている。下部の数字はこの投稿がどれだけ拡散されたかを示していて、数字だけ見れば文句なしに「バズっている」と呼べる状況だ。
くしゃくしゃ髪で、分厚い眼鏡で、肥満体型で、……今にも泣きだしそうな顔で、正面を向いているその顔は――
ガタン!
唐突な物音は、社長代理が椅子を蹴って立ち上がったからだ。両手をテーブルに突き、固く唇を結んだ彼は、完全に血の気の引いた顔で虚ろな目を泳がせている。
「……少し考える」
聞き取れないほど低い声でそう短く言い捨てて、社長代理はきびすを返すと社長室へと戻っていった。
鮫島先輩は微笑を浮かべ、スマホを懐へしまい込む。
私一人が不安の中で、社長代理の消えた扉をただ茫然と見つめていた。