初恋カレイドスコープ
社長代理の今日のスケジュールに、波留さんとのアポイントは無かったはずだ。私は社長代理の秘書として、彼の一日の予定については常に把握するようにしている。
いかに波留さんが相手と言えど、約束の確認ができないのにお通しするわけにはいかない。私は慌てて社長代理に連絡し、波留さんがおいでになった旨をできるだけ簡潔にお伝えした。
私の言葉を聞いた社長代理は数秒黙り込み、でも、やがて諦めたみたいに『連れてきて』と短く言う。
(社長代理は、波留さんのために無理に時間を作ることにしたのかな)
エレベーターに案内しながら、傍らの波留さんの顔を見上げる。にこりともせず虚空を睨む、波留さんの表情は前回同様……いや、前回以上に峻険だ。
波留さんとともに秘書室に入ると、秘書の先輩方がぎょっと目を見張るのがわかった。そうだよね、だって波留さん、ものすごく目立つもの。いきなりこんなオーラを放つ美形が部屋に入ってきたら、たぶん誰でも驚くだろうし、色めき立つのも無理はない。
「お前の事務所、飛び込み営業が必要なほど仕事に困ってたの?」
社長室の椅子に腰かけ、指先を軽く組んだ社長代理は、波留さんの顔を見るなりそう皮肉っぽく言い捨てた。
波留さんは別段怒るわけでもなく、居酒屋のカウンターに座るみたいに来客用の椅子へ腰かける。長い足が置き場所に窮するように、斜め横へと乱暴に組まれる。
「仕事は忙しい」
ただでさえ険しい波留さんの眉間に、いつもより深いしわが刻まれる。
「でも、お前に話があって来た」
かすかに微笑む社長代理と波留さんの鋭い瞳が、小さな火花を散らしあいながら真っ向から睨みあった。
「……俺はないね。飲みの誘いなら歓迎するけど」
「はぐらかすな。本当はわかっているんだろう」
「さあ。なんのこと? そんな顔してると奥さんに嫌われるよ」
「俺は無駄話をしに来たわけじゃない」
このまま話が始まりそうだったので、私は二人へ一礼すると足早に部屋を出ようとした。お二人の会話に私が同席する必要はない。むしろ、私がいても却って邪魔になるだけだ。
ところが波留さんは、横を通り過ぎようとした私を手で指すと、
「さっきも外で彼女が妙な連中に絡まれていた」
と、社長代理の目を見つめ、なじるような声で言った。
社長代理の目線が私を一瞥し、また波留さんへ戻る。私は足を止めたまま……動くに動けず、ただ立ち竦む。
「お前の醜聞を探って公表しようとしている輩がいる。今はまだインターネット上のみに留まっているが、このままだといずれ話が大きくなっていく可能性もある」
「…………」
「何を相手にしているかは知らないが、釘を刺すなら早めがいい。会社の顧問弁護士を使いづらいなら、俺が手を貸してやれる」
社長代理は波留さんを見つめたまま、感情の読めない瞳でしばらく黙り込んでいたけど、やがてふっと口角を上げると、
「お前には関係ない」
と、ひどく冷たく、突き放すように言った。
波留さんがまた眉をひそめる。前はあれだけ親しげに見えた二人を取り囲む空気が、剣呑な、緊張感の漂うものに変わっていく。
無言の睨み合いが続き、やがて社長代理は椅子の背もたれにゆっくりと寄りかかった。彼は波留さんの、そのさらに奥を遠い眼差しで見据え、
「俺ひとりでなんとかするよ」
と言って、どこか力なく微笑んだ。