初恋カレイドスコープ
バタバタと係長が部屋へ入ってきて、部署の社員が私を含め一斉に顔を上げた。
係長はメモをめくりながら、落ち着かない様子で口を開く。
「ええ、大変重要なお知らせが三点あります。まず一つ目は、椎名一華社長が長期の休業に入られることになりました」
周囲がざわめく。椎名一華社長はその名のとおり我が社のトップで、非常に辣腕な女社長だ。(本人はこの『女社長』という呼び名が大嫌いらしい)我々末端とはまるで接点がないとはいえ、営業としては一華社長のネームバリューに救われてきた面もある。
それが、何の前触れもなく長期の休業なんて……何があったか知らないけれど、楽しい話ではなさそうだ。
「そして二点目。社長の休業に伴い、弊社の取締役員であった社長の弟さんが、一時的に社長代理を務める運びになりました」
「……弊社の役員に弟さんなんていたんですか?」
「いたそうです。私も知りませんでした」
……弊社、本当に大丈夫?
みんなの顔に不安が次々に滲んでいく。
「そして三点目。社長代理の就任に伴い、弊社で臨時の大規模な人事異動が行われることになりました。営業課は転出一名、転入一名です。転出は」
そこで言葉を切り、係長は私へ目を向けて眼鏡越しに微笑んだ。
「高階凛さん。秘書課への異動です」
…………。
「……え? わ、私?」
想像もしていなかった言葉に頭が真っ白になる。
ずっと秘書課に行きたかった。それは確かに間違いない。
私はそもそも一華社長の辣腕に憧れて入社したんだ。憧れの人の一番近くで、その姿を見ながら働きたい。そう思いながらずっとずっと営業を頑張ってきたのだけど。
「どういうことですか!? こんな時期に人事異動なんて、前例がないじゃないですか!」
「そうだねえ。でも、社長代理の鶴の一声らしくて」
「おかしいですよ! しかも、り、……高階さんだけ秘書課だなんて!」
ああ、わかるよ愛菜。愛菜だってずっと秘書になりたいって私と一緒に言ってたもんね。二人で一緒に営業を頑張って、人事を認めさせてやろうって、一緒に励ましあってたもんね。
「今回の異動はかなり大規模なんですよ。別に高階さん一人が異動になったわけじゃなくて」
「でも……でも、納得いきません!」
「そう言われてもねえ……」
血相を変えた愛菜の勢いに係長はすっかり気圧されている。そして私は呆然と棒立ち。全然頭が追い付いていない。
デスクの片づけとお引越しは夕方でいいと言われたので、とりあえずこの身ひとつで秘書課の部屋へ足を運ぶ。震える手で軽くノックし、私がそっと扉を開けると、歴戦の秘書の先輩方がパッと顔を上げてこちらを見た。
「高階さん?」
「はい。よろしくお願いします」
「私は秘書課の鮫島です。よろしくね。私たちも……ちょっと戸惑っているところだから」
目の覚めるような美人の鮫島先輩は、ヒールの音をコツコツ鳴らしながら社長室の扉をノックした。
「椎名社長代理。秘書課に転入した高階さんが挨拶に来ております」
「どうぞ」
……ん? この声。
違和感が言葉になるよりも早く、鮫島先輩が社長室の扉を開ける。視線で促され、私はぎくしゃくしながら社長室に足を踏み入れる。
「本日から秘書課に異動になりました、高階凛で……す……」
語尾がどんどん小さくなる。
目に映る景色が歪んでいく。
「よろしく」
小さく微笑む口元から、シンガポール・スリングの甘い香りがふわりと漂った気がした。