初恋カレイドスコープ
ネイルサロンの初出店は、確か藤沢だと聞いていた。
でも、副社長の車が目指す方向はどう見ても藤沢じゃない。横浜だ。それも街中ではなく、細い道をくねくね曲がって住宅街を進んでいく。
「あの……店舗はどのあたりにあるのですか?」
小声で訊ねても返事はなし。副社長は何も聞こえていないようで、のんきに鼻歌なんかを歌っている。以前の怜悧な印象が嘘みたいにご機嫌で、なんだか正直気味が悪い……といったら失礼だろうか。
やがて車は閑静な住宅街の片隅にたどり着いた。大きなガレージのシャッターが自動で上へ開いていく。副社長はその中に車を停め、シャッターを完全に閉めてから、ようやく車のドアを開けて私をうやうやしく外へと出した。
インナーガレージのドアから建物の中へと足を踏み入れる。隅に埃のたまった廊下。開きっぱなしのトイレのドアと、床に落ちたままのトイレットペーパーのロール。壁には画鋲で穴をあけた跡だけが点々と残っている。
確かに広そうには見えるけど、基本的には普通の一軒家で、とてもじゃないけどネイルサロンの店舗のようには思えない。そしてなにより、この異臭。あたりを強烈に漂う、この甘ったるい香りはなに?
「さあ、こっちだ。皆待っているよ」
いぶかしむ私をまるで無視して、青木副社長は意気揚々と廊下を歩く。そして彼はリビングの手前で私の背中をそっと押して、
「お待たせしたね、諸君。ほら、高階君を連れてきたよ!」
と、ダイニングチェアに腰かけるオモチャたちに私を紹介した。
(……え?)
たちの悪い冗談だとか、悪い夢を見ているのだとか。
心の病を疑いたくなる異様な光景なのだけど、青木副社長はひとりご機嫌に空いた席へと私を誘う。隣の椅子にはうさぎのぬいぐるみ。反対隣にはくまのソフトビニール人形。他にも、アイドルのアクリルスタンドやストラップ付キーホルダー、そして精巧な球体関節人形などが、まるでパーティーの列席者みたいにテーブルを囲んで鎮座している。
テーブルの上には人数分の……オモチャの数だけのコップが並び、コンビニで売っているような個包装のお菓子が添えられている。猿のオモチャの前のお菓子だけ包装が破かれていて、ふたつに割られたクッキーの破片がテーブルクロスに飛び散っていた。
そして青木副社長は呆れたように微笑みながら、
「ああもう、松岡君。クッキーくらいきれいに食べたまえ」
と、こぼれたお菓子のかすを丁寧に拾ってゴミ箱へ捨てるのだ。
「まったく。これからの我が社を担う先兵となるはずの君がこれでは困ってしまうよ」
「あ、あの、副社長」
「『だって副社長の前だと気が緩んでしまうんですよ。少しくらいイイじゃないですか!』 なんだと? 社会人としてあるまじき甘え切った発言だな。仕方ない、そんな悪い子はお仕置きだ。ほらほら!」
猿のオモチャの腕の部分を細いロープで縛りながら、青木副社長は朗々と笑い声をあげている。
私は、もう……明らかに狂ったこの光景を前に、声を上げることも、逃げることもできず、ただ子どものように震えるだけ。
(来るんじゃなかった)
計画がまだ続いているかも、なんて早合点した自分を殴りたい。
(やっぱり全部終わってたんだ。きっとすべてを失って、副社長の心は壊れてしまったんだ)