初恋カレイドスコープ

「ご心配は無用にございます。私は至って冷静であります。ええ、冷静……そうですとも! 商談! これは商談でございます、社長代理! シーナコーポレーションからの独立を認める話し合いの席についていただきたいのです! ねえ! それがいい! そうしましょう!」

『ふざけんなよ、なんで今更……ああもう、わかった、なんでも聞くから! だからちょっと落ち着いてくれ!!』

 慌てる玲一さんを無視して、青木副社長は上機嫌に住所を述べながら「電話を切らずにすぐ来てくださいね! おひとりで! 約束ですよ!」と繰り返す。

 甲高い裏声で人形遊びをしていたときと同じテンション。正気と狂気を行き来しながら、四十過ぎの大人の男が声高らかに笑っている。

『すぐに行くから! だからこれ以上何もしないでくれ、頼む!!』

 玲一さんの声を無視して、青木副社長は通話中のままスマホを胸ポケットにしまうと、醤油まみれのテーブルクロスを剥ぐように引っ張り出した。中庭に続く窓を開け、軽やかな足取りで庭へ飛び出していく。

 リビングからたくさんの家具を持ち出し、何往復かを重ねたあと、彼はすべての仕上げと言わんばかりに私の座る椅子に手をかけた。

 キャスターがガラスの破片を踏み荒らし、椅子が中庭へ押し出される。広い庭だ。手入れされていない剥げた芝生に、錆びついた子ども用のブランコ。そして夜空の星を映し込む、冷たく凪いだプライベートプール。

 プールの傍らにはリビングから持ち出された椅子とテーブルが並んでいて、副社長はその一番端に私の座る椅子をセットした。それから彼は再びリビングへ戻り、両手いっぱいにぬいぐるみや人形を抱え、それらをまたひとつひとつ丁寧に椅子へと座らせていく。

「商談だ、商談だ」

 青木副社長の胸ポケットから、玲一さんが何かを叫ぶくぐもった声が聞こえてくる。

「椎名玲一とやりあうんだ、最高の席を用意しなければ。……安心したまえ、諸君。うまくいけばハウスキーパー部門も合わせて引き抜けるかもしれない。敵はおそらく抵抗するだろうが、なに、あの男の人間性における数々の問題点を指摘してやれば、ぐうの音も出せないままにきっと負けを認めるはずだ」

「…………」

「我らの未来は晴れやかだ。ここまでついてきてくれてありがとう。新たな会社の社長として、全力で君たちを守り抜くと誓うよ。ああ! 愛しているよ! 我が社員たち!」

 振り上げた腕に弾き飛ばされて、うさぎのぬいぐるみがプールへ落ちる。ものも言わずに沈んでいくその様を横目に、私はどうにかしてこの狂気を打開できないか、必死になって考えた。

 すぐに行くから、と彼は言った。でも、冷静に考えるなら玲一さんの最適解はひとつ。すぐ警察に通報すること。

 でも、警察がここを取り囲んだら、青木副社長はどうするだろう。私という人質と立て籠もるか、ガレージの車で逃亡するか。あるいは完全に正気を失って、理屈では考えられない行動に出るかもしれない。

(玲一さんにこれ以上迷惑をかけるのは嫌だ)

 いずれにしろ、今の完全におかしくなっている青木副社長を刺激するのは正直怖い。できるだけ穏便に、パニックを起こさせないよう、事態を収束させることができれば一番なのだけど……。



 キキキキキキッ、バン!!

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