アオハル・スノーガール
バスの中の出会い
うだるような暑さの、8月下旬。私は田園風景の中を走る、路線バスと言う名の灼熱地獄の中にいた。
暑い。ものすごく暑い。
座席に腰掛けながら、今にも倒れそうになるのを我慢しているけど、いつまでもつか分からない。
乗客はそう多くなく、車内は閑散としているけど、みんな一様に暑さで頭をふらつかせている。
それもそのはず。だって本来機能しているべきこのバスの冷房は、壊れているんだもの。
私がこのバスに乗ったのは、三十分ほど前。
最初のうちは、普通に冷房が効いていたのに、途中から吹き出し口から冷たい風が吹かなくなって、気がつけばこの有り様。
夏のこの時期、冷房が効いていない車の中は、冗談抜きで危ない。車内で熱中症になって病院に運ばれたなんてニュースが、毎年テレビで流れているもの。
窓という窓はとっくに全開になっているけど、それでも暑いことに変わりはなくて非常に危険。特に私のような人間……いや、妖には。
(いけない、溶けちゃいそう)
溶けちゃいそうと言うのは、比喩表現じゃない。本当に物理的に、体が溶けてしまいそうなのだ。いや、現に少しだけど、肌の表面が溶け始めている。
マズイマズイマズイ。
朦朧とする意識を何とか保ちながら、私はひどく焦っていた。
水気を吸って、肌に張り付いているシャツ。これは汗で濡れている訳じゃない。私の体が僅かに溶けて、その水分を吸っているのだ。
もちろん普通の人間なら、こんなことはあり得ないけど。
だけど私は人間じゃないもの。雪女と呼ばれる、妖なんだもの。
雪女。それは日本に古くから伝わる、雪を操るとも、体が雪でできているとも言われている妖のこと。
この令和の時代、妖なんているわけないと思っている人がほとんどだけど、実在するのだ。だって私が、そうなんだもん。
綾瀬千冬、15歳。私はれっきとした雪女だ。
正確には、4分の1だけ妖の血が混じっている、人間と雪女のクォーターなんだけどね。
今まで雪女であることを隠して、東京で人間に交じって生きてきたけれど、今は、田舎で暮らしいているお婆ちゃんの家に向かっている最中。だけどその途中で、こんな目に遭うだなんて。
雪女だからと言って、暑さ対策をしっかりしていれば夏でも簡単に溶けたりはしない。けど、冷房のきいていないバスの暑さは、限度を超えていた。
(ど、どどど、どうしよう。これ以上暑くなったら、本当に溶けちゃうよ)
溶けると言っても、死んじゃうわけじゃないけど。
雪女は溶けてしまうと、体がドロドロのアイスクリームみたいになって、自由に動くことができなくなってしまうのだ。
体が冷えてくれば元の姿に戻ることができるんだけど、問題はここが、人目のある公共の場、バスの中だということ。
乗客の数はまばらだけど、やっぱり人目がある。もしここで液体人間になってしまったら、大騒ぎどころの話じゃない。きっと、化け物扱いされてしまう。
何とか身体を冷やさないと。
だけど、窓から吹いてくる風だけじゃ、到底冷たさが足りない。ポケットに入れていた保冷剤を手にしても、もうとっくに溶けていて、ぬるくなってしまっている。
しかも焦っていると、不意にバスが曲がって。窓から強い日差しが、容赦なく襲ってきた。
(いやあぁぁっ、やめてー、洒落になってないよー)
バスの向きが変わった事により、日差しの直撃を受けてしまい、ますます慌てる。
特に腰まで長く伸ばした黒い髪は熱を吸収するから、背中が大変なことになっていた。
ああ、こんなことならやっぱり、髪を黒く染めるんじゃなかった。
私の髪は本来、雪のような白色をしていたのだけど。理由あってつい最近、黒く染めたばかり。だけど、そのせいでこんな事態を引き起こすなんて。
ダメ、もう限界。このまま溶けて騒ぎになって、化け物扱いされてしまうんだ。
そんな絶望的な未来を思い浮かべながら、だんだんと意識は薄れていく……。
「保冷剤、いる?」
え、誰?
意識が遠退いている中、不意に聞こえてきたバリトンボイス。
頑張って目を開くと、そこには私と同い年くらいの、つり目で睫毛の長い、黒い髪をした男の子が私をのぞき込んでいた。
「アンタ、顔色悪そうだけど大丈夫か? 保冷剤あるけど、使う?」
「ほ、保冷剤! い、いります!」
まるで砂漠をさ迷っていたら、オアシスを見つけたみたいに。私は二つ返事でこれに食いついた。
彼がポケットから取り出した保冷剤はまだ冷たくて。首筋に当てるとひんやりして、少しだけ気分が楽になった。
ああ、気持ちいいー。地獄に仏とは、まさにこの事。
たかが保冷剤、されど保冷剤。首に当てたら全身を冷やしてくれるから、有るのと無いのとでは、大分違うのだ。
私は座席から立ち上がると、彼に向かって深く頭を下げた。
「あ、ありがとうございます。おかげで助かりました」
「別にいいよ。それより、どこまで行く気? この暑さだと、保冷剤も長くはもたないぞ」
眉一つ動かさずに、無表情のまま指摘してくる彼。
あ、そうだった。つい助かった気になっちゃってたけど、これくらいじゃ焼け石に水。このままこのバスに乗り続けていたら、また溶けそうになるに決まってるもの。
「あの、『川村』って言う停留所なんですけど、どれくらいかかるか分かりますか?」
「川村。そう遠いわけじゃないけど、暑いのを我慢できないなら一旦降りて、次のバスに乗った方がいいかも」
確かに。ここのまま冷房が壊れたバスに乗り続けるのは、あまりに危険だもの。ただ気になるのは、次のバスが来るのがいつかってこと。
ここは住み慣れた東京じゃなくて、地方の田舎町。たしかバスは、一時間に一本くらいしか走ってなかった気がする。
それにさっきから外を見ていると、この辺の停留所には目印の看板が立っているだけで、辺りには休めそうなベンチも無かった。
もしも次の停留所もそんな感じだったら、炎天下の中長時間待つことになってしまう。そんなの、我慢できるはずないのに。あ、そうだ。
「すみません、次の停留所の近くで、時間を潰せる涼しい所ってありませんか?」
この辺の土地に全く詳しく無い私が頼れるのは、保冷剤をくれた親切な彼だけ。
祈るような気持ちで尋ねると、彼はしばらく考えた後、そっと口を開いた。
「あんまり面白味の無い所だけど。ちょっと歩いた所に、喫茶店ならある」
「本当ですか!?」
今は面白さなんてどうでもいい。休める場所があるというだけで、大助かりだ。
するとそんな事を話している間に、バスは停留所に到着した。 そこは田んぼや畑が並んでいるエリアと、民家が並ぶ町並みの、丁度中間といった感じの場所。
網棚の上にあったボストンバックを取って急いでバスから降りると、何故か保冷剤の彼も一緒に降りてきた。
「外も十分暑いな。これは早いとこ行った方が良さそうだ。付いてきな」
「え、案内してくれるんですか?」
「そりゃあ、まあ。でないとアンタ、場所分からないだろ」
「あ……」
そうだ、まだ場所を聞いていないや。恥ずかしい話だけど、指摘されるまでその事にまるで気づいていなかった。
うう、恥ずかしくて溶けちゃいそう。
体中が熱くなり、顔は真っ赤になってしまったけど、彼はそんなことを気にする様子もなく、そっと腕を伸ばして来て。私が肩から下げているボストンバックの紐に、手をかけた。
「持つよ。まだ気分悪いんだろ」
「え、あの」
そんな、保冷剤をもらって、道案内までしてもらうのに、これじゃあ申し訳なさすぎる。
だけど彼は止めるのも聞かずに、ずんずん歩いていく。
「急ごう。ぐずぐずしていて倒れられても、運んであげられないからな」
「い、今行きます!」
ニコリともせずに言い放った彼の後を、慌てて後を追いかける。
だけど口じゃああ言っているけど。何だかんだ言いながら背負ってでも運んでくれるような気が、しなくもない。
さっきからまったく笑わずに、愛想が良いとは言えない彼だけど。氷のような表情に反して、面倒見が良いと言うか、世話焼きと言うか。
(優しい……そうだ、優しいんだ)
何だろう。彼の背中を追いかけて歩いていると、何故か胸が波をうってくる。これは暑さのせい、だよね?
初めて感じる不思議なドキドキに戸惑いながら、彼の後ろをついて行く。
本当、今日は暑くて溶けちゃいそう。
暑い。ものすごく暑い。
座席に腰掛けながら、今にも倒れそうになるのを我慢しているけど、いつまでもつか分からない。
乗客はそう多くなく、車内は閑散としているけど、みんな一様に暑さで頭をふらつかせている。
それもそのはず。だって本来機能しているべきこのバスの冷房は、壊れているんだもの。
私がこのバスに乗ったのは、三十分ほど前。
最初のうちは、普通に冷房が効いていたのに、途中から吹き出し口から冷たい風が吹かなくなって、気がつけばこの有り様。
夏のこの時期、冷房が効いていない車の中は、冗談抜きで危ない。車内で熱中症になって病院に運ばれたなんてニュースが、毎年テレビで流れているもの。
窓という窓はとっくに全開になっているけど、それでも暑いことに変わりはなくて非常に危険。特に私のような人間……いや、妖には。
(いけない、溶けちゃいそう)
溶けちゃいそうと言うのは、比喩表現じゃない。本当に物理的に、体が溶けてしまいそうなのだ。いや、現に少しだけど、肌の表面が溶け始めている。
マズイマズイマズイ。
朦朧とする意識を何とか保ちながら、私はひどく焦っていた。
水気を吸って、肌に張り付いているシャツ。これは汗で濡れている訳じゃない。私の体が僅かに溶けて、その水分を吸っているのだ。
もちろん普通の人間なら、こんなことはあり得ないけど。
だけど私は人間じゃないもの。雪女と呼ばれる、妖なんだもの。
雪女。それは日本に古くから伝わる、雪を操るとも、体が雪でできているとも言われている妖のこと。
この令和の時代、妖なんているわけないと思っている人がほとんどだけど、実在するのだ。だって私が、そうなんだもん。
綾瀬千冬、15歳。私はれっきとした雪女だ。
正確には、4分の1だけ妖の血が混じっている、人間と雪女のクォーターなんだけどね。
今まで雪女であることを隠して、東京で人間に交じって生きてきたけれど、今は、田舎で暮らしいているお婆ちゃんの家に向かっている最中。だけどその途中で、こんな目に遭うだなんて。
雪女だからと言って、暑さ対策をしっかりしていれば夏でも簡単に溶けたりはしない。けど、冷房のきいていないバスの暑さは、限度を超えていた。
(ど、どどど、どうしよう。これ以上暑くなったら、本当に溶けちゃうよ)
溶けると言っても、死んじゃうわけじゃないけど。
雪女は溶けてしまうと、体がドロドロのアイスクリームみたいになって、自由に動くことができなくなってしまうのだ。
体が冷えてくれば元の姿に戻ることができるんだけど、問題はここが、人目のある公共の場、バスの中だということ。
乗客の数はまばらだけど、やっぱり人目がある。もしここで液体人間になってしまったら、大騒ぎどころの話じゃない。きっと、化け物扱いされてしまう。
何とか身体を冷やさないと。
だけど、窓から吹いてくる風だけじゃ、到底冷たさが足りない。ポケットに入れていた保冷剤を手にしても、もうとっくに溶けていて、ぬるくなってしまっている。
しかも焦っていると、不意にバスが曲がって。窓から強い日差しが、容赦なく襲ってきた。
(いやあぁぁっ、やめてー、洒落になってないよー)
バスの向きが変わった事により、日差しの直撃を受けてしまい、ますます慌てる。
特に腰まで長く伸ばした黒い髪は熱を吸収するから、背中が大変なことになっていた。
ああ、こんなことならやっぱり、髪を黒く染めるんじゃなかった。
私の髪は本来、雪のような白色をしていたのだけど。理由あってつい最近、黒く染めたばかり。だけど、そのせいでこんな事態を引き起こすなんて。
ダメ、もう限界。このまま溶けて騒ぎになって、化け物扱いされてしまうんだ。
そんな絶望的な未来を思い浮かべながら、だんだんと意識は薄れていく……。
「保冷剤、いる?」
え、誰?
意識が遠退いている中、不意に聞こえてきたバリトンボイス。
頑張って目を開くと、そこには私と同い年くらいの、つり目で睫毛の長い、黒い髪をした男の子が私をのぞき込んでいた。
「アンタ、顔色悪そうだけど大丈夫か? 保冷剤あるけど、使う?」
「ほ、保冷剤! い、いります!」
まるで砂漠をさ迷っていたら、オアシスを見つけたみたいに。私は二つ返事でこれに食いついた。
彼がポケットから取り出した保冷剤はまだ冷たくて。首筋に当てるとひんやりして、少しだけ気分が楽になった。
ああ、気持ちいいー。地獄に仏とは、まさにこの事。
たかが保冷剤、されど保冷剤。首に当てたら全身を冷やしてくれるから、有るのと無いのとでは、大分違うのだ。
私は座席から立ち上がると、彼に向かって深く頭を下げた。
「あ、ありがとうございます。おかげで助かりました」
「別にいいよ。それより、どこまで行く気? この暑さだと、保冷剤も長くはもたないぞ」
眉一つ動かさずに、無表情のまま指摘してくる彼。
あ、そうだった。つい助かった気になっちゃってたけど、これくらいじゃ焼け石に水。このままこのバスに乗り続けていたら、また溶けそうになるに決まってるもの。
「あの、『川村』って言う停留所なんですけど、どれくらいかかるか分かりますか?」
「川村。そう遠いわけじゃないけど、暑いのを我慢できないなら一旦降りて、次のバスに乗った方がいいかも」
確かに。ここのまま冷房が壊れたバスに乗り続けるのは、あまりに危険だもの。ただ気になるのは、次のバスが来るのがいつかってこと。
ここは住み慣れた東京じゃなくて、地方の田舎町。たしかバスは、一時間に一本くらいしか走ってなかった気がする。
それにさっきから外を見ていると、この辺の停留所には目印の看板が立っているだけで、辺りには休めそうなベンチも無かった。
もしも次の停留所もそんな感じだったら、炎天下の中長時間待つことになってしまう。そんなの、我慢できるはずないのに。あ、そうだ。
「すみません、次の停留所の近くで、時間を潰せる涼しい所ってありませんか?」
この辺の土地に全く詳しく無い私が頼れるのは、保冷剤をくれた親切な彼だけ。
祈るような気持ちで尋ねると、彼はしばらく考えた後、そっと口を開いた。
「あんまり面白味の無い所だけど。ちょっと歩いた所に、喫茶店ならある」
「本当ですか!?」
今は面白さなんてどうでもいい。休める場所があるというだけで、大助かりだ。
するとそんな事を話している間に、バスは停留所に到着した。 そこは田んぼや畑が並んでいるエリアと、民家が並ぶ町並みの、丁度中間といった感じの場所。
網棚の上にあったボストンバックを取って急いでバスから降りると、何故か保冷剤の彼も一緒に降りてきた。
「外も十分暑いな。これは早いとこ行った方が良さそうだ。付いてきな」
「え、案内してくれるんですか?」
「そりゃあ、まあ。でないとアンタ、場所分からないだろ」
「あ……」
そうだ、まだ場所を聞いていないや。恥ずかしい話だけど、指摘されるまでその事にまるで気づいていなかった。
うう、恥ずかしくて溶けちゃいそう。
体中が熱くなり、顔は真っ赤になってしまったけど、彼はそんなことを気にする様子もなく、そっと腕を伸ばして来て。私が肩から下げているボストンバックの紐に、手をかけた。
「持つよ。まだ気分悪いんだろ」
「え、あの」
そんな、保冷剤をもらって、道案内までしてもらうのに、これじゃあ申し訳なさすぎる。
だけど彼は止めるのも聞かずに、ずんずん歩いていく。
「急ごう。ぐずぐずしていて倒れられても、運んであげられないからな」
「い、今行きます!」
ニコリともせずに言い放った彼の後を、慌てて後を追いかける。
だけど口じゃああ言っているけど。何だかんだ言いながら背負ってでも運んでくれるような気が、しなくもない。
さっきからまったく笑わずに、愛想が良いとは言えない彼だけど。氷のような表情に反して、面倒見が良いと言うか、世話焼きと言うか。
(優しい……そうだ、優しいんだ)
何だろう。彼の背中を追いかけて歩いていると、何故か胸が波をうってくる。これは暑さのせい、だよね?
初めて感じる不思議なドキドキに戸惑いながら、彼の後ろをついて行く。
本当、今日は暑くて溶けちゃいそう。
< 1 / 37 >