花縁~契約妻は傲慢御曹司に求愛される~
「そもそも奥様の存在自体が謎よね。うちの社内で誰も姿を知らないんでしょう?」


「上層部は知ってるでしょ、さすがに」


悪意のない噂話だとわかるのに、ドクンドクンと鼓動が大きな音を立てる。


「まさか架空の人物とか?」


「なんで?」


「ほら社長ってモテるし、縁談もすごかったらしいから、女除けとか」


「でもマスコミに正式発表もしてたわよね」


じゃあ違うのかしら、と女性たちは訝しむ。


「とはいえ、公の場にも出なさすぎよね。先週の式典も社長おひとりだったじゃない」


「ああ、確か加賀谷さんが一緒に出席されていたわね」


耳に入って来た名前に体が強張る。


「そういえば今日も来社されていたわよ、加賀谷さん。午前中秘書課に寄ったときにふたりが社長室に入っていくのを見たもの」


「以前から頻繁に来られていたけど、最近は特に多いわね」


「もしかして元鞘に戻る相談とか?」


「それはないでしょ。加賀谷さんの挙式日程が決まったってネットニュースで読んだわ」


聞こえてくる会話に一喜一憂している自分が情けなくて、嫌になる。

加賀谷さんの挙式が決まったと知って、安堵している今の自分はもっと嫌いだ。


「じゃあ……恋愛相談でもしているのかしらね?」


「誰と誰のよ?」


アハハと女性たちが楽しそうに声を上げる。

さすがにこのまま聞き続ける気力も勇気もなく重い足を必死に動かして、足音を立てないように注意しつつ踵を返した。

フロアのエレベーターホール近くの大きな観葉植物の隣で深呼吸を繰り返す。

無意識に握りしめていた指先は冷たくなっていた。
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