花縁~契約妻は傲慢御曹司に求愛される~
「あの、あなたは……」


誰、と前を歩く背中に尋ねかけた瞬間、答えが返ってきた。


(あおい)だ」


「え?」


「俺の名前。聞きたかったんだろ?」


端的に告げられて、返答に窮する。


「君は?」


前を向いたまま尋ねられ一瞬躊躇し、下の名前だけを告げた。


「逢花です」


「漢字は?」


「逢瀬の逢に、花束の花です」


「へえ……ぴったりの名前だな」


意味がよくわからず、反応に困る。


「“花”のおかげで俺たちは“逢”えた」


さらりと言われた言葉に息を呑むと、振り向いた彼が頬を緩めた。

まるで今夜の出来事を喜ぶような物言いに、心が揺さぶられる。

一気に熱を持った頬に気を取られ、彼の名前にはなんの疑いももたなかった。

それよりも二十分ほど前に出会ったばかりの相手の車でホテルに来るという突拍子のない行動が信じられずにいる。


……冷静になりなさい。


このまま、ついていく気?


決心が揺らぎ歩みが遅くなった私に気づいたのか、やってきたエレベーターに強引に押し込まれる。


「願いを叶えると言っただろ?」


ふたりきりの籠の中で、私を胸の中に壊れ物のように優しく抱き込む。

鼻孔をくすぐるシトラスの香りが心地よくて、ふいに泣きたくなった。


「俺には逢花が必要だし、こんな状態では帰せない。このまま甘やかされていろ」


傲慢な甘い命令に、鼓動がどんどん速くなっていく。

車中で話した、私の情けない失恋を気にかけてくれているのだとわかった。

授かり婚と寿退職を満面の笑みで告げる後輩の姿が、ギュッと閉じた瞼の裏に浮かぶ。
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