君のハグなんていらない!
「では引退する三年生の先輩方に、一言ずついただきたいと思います」
次期部長の声で、乱れた会場が一気に静まり返った。
三年生が一人ずつ前に出て挨拶をすると、笑顔が男泣きに変わっていった。
挨拶が終わると、後輩たちからささやかな贈り物が送られる。こういう贈り物を準備するのも、マネージャーの仕事だ。
贈り物が渡された瞬間、「ウェーイ」の掛け声と共に、全員でハグ。
ほんと好きだな、ハグが。
そう言えば、入部した時もこんな感じだった。
「彼女連れで入部かよ、ウェーイ」なんてからかわれた。私はすぐさま「違います」と反論しようとしたけど、私が言い返す前に、「ウェーイ」なんて、先輩たちのノリに合わせて、大地はその少々チンピラ的な歓迎にすっと溶け込んでいった。私が彼女であるということを、否定することもせず。
こんな地味でかわいくもない、マネージャーなんて似合わない私が、大地の彼女であるわけ、ないのに。
惨めな気持ちをふっと鼻で笑い飛ばして、ウェーイ&ハグを見守った。
最後に校歌を歌ってお開きというのが毎年の流れだ。それを見越して、私は飲み散らかされた紙コップと食い散らかされた紙皿を集め、一足先に片付け準備にとりかかった。
「えーそれでは最後になりましたが……」
次期部長が声を発する。
「田中美咲マネージャー」
思いがけず自分の名前が呼ばれ、作業中の手を止めた。
「……へ?」
裏返った声と共に辺りを見回すと、野球部員が整列している。一、二年生だけでなく、三年生も。なぜか、先ほどまでかぶっていなかった校章入りの野球キャップをかぶって。
なに? と訝しんでいると、再び次期部長が言った。
「美咲先輩、俺たちをずっと支えて下さって、ありがとうございました」
「ありがとうございました」と野太い声が調理室に響き渡り、キャップを外した部員たちが一斉に深々と頭を下げた。
私に向かって。
その光景に驚いたというより、恐れおののいた。
周りは何も知らなかったのか、呆気にとられた顔が並んでいた。パラパラとした拍手がそこかしこから始まると、その音は次第に大きくなっていく。
不意に手に持っていた紙コップがすっと持っていかれたかと思ったら、「これ」と言って何かを握らされた。
手の中には、ジャム瓶ほどの大きさの瓶があった。口元にはリボンまで掛けてある。その瓶の中に詰まっていた小さな粒が何なのか、はじめはよくわからなかった。だけど、
「美咲先輩の分です」
その言葉で、わかった。
これは、みんなが必死になって袋に詰めていた……
「それからこれ」
ぐいと色紙が押し付けられた。そんな渡し方あるか、と内心目を剥きながら、胸に押し付けられた色紙をそっと見た。
そこには、みんなからのメッセージが記されていた。その真ん中に、写真が貼り付けられている。それは、甲子園球場の去り際に撮った、集合写真だった。
その写真を見て、脱力するように、私の口から「はっ」と笑いが漏れた。同時に、涙も溢れた。
__みんな、笑ってる。
きらきらとした夏の太陽みたいにまぶしいいくつもの笑顔が、そこに並んでいた。そこに、大地もいた。
「おお、美咲先輩が笑った。え? 泣いてる?」
「田村さんって笑うんだ。教室でも見たことないぞ」
__見せもんじゃないぞ、コラ。
いろんな感情に、顔が歪む。
もう、何が何だかわからない。
みんなが驚いたり笑ったりして私を囲むところに、顧問の先生の声がゆったりと割り込む。
「あれ? 田中さんには、ハグしないのか?」
何言ってんの? 先生。 先生がそういうこと、勧めます?
ていうか、私みたいなかわいくもない愛想もない女子をハグしたい人なんていませんよ。
そういう人を惨めにさせる質問はやめてほしい。
「いや、私は……」と言おうとした時、一人の後輩がうんざりしたように答えた。
「するわけないじゃないですか。そんなことしたら、大地先輩にぶっ飛ばされますよ。美咲をハグしていいのは俺だけだからなって、睨んでくるんだから」
その言葉に、涙も笑いも一瞬で引っ込んだ。周りだけが、盛大に笑っている。
すぐさま、「おい、それ以上言うな」と大地の声が割って入る。
「ほら、もう終わったんだから、散れ散れ」
大地の様子がおかしかった。こんなに動揺する大地を見るのは初めてだ。
大地の睨みに、後輩部員たちが「ひぇー」なんて声を上げながら、笑い声を残して逃げていく。
同級生たちは呆れたような笑みで、大地の肩をポンポンと叩いてこの場を去った。
大地は私と目が合うと、日に焼けた真っ黒なその顔を、気まずそうに手で隠した。
遠くの方から、もう校歌が聞こえてくる。
雑な校歌をBGMに、私ち二人は顔をそらして向き合った。
「それ」
「……え?」
「甲子園の砂」
「あ……うん」
「俺の案だから」
「え? あ、そうなんだ。ありがとう」
「だから、……ハグしてよ」
「……え?」
迂闊にも、その言葉と、その声と、その真剣なまなざしに、足が一歩前に出そうになった。
だけどぐっととどまった。だってどうせ、大地は深く考えて言ってないんだから。いつも通り、軽い気持ちで言ってるだけだから。
「俺じゃ、ダメ?」
そんな言い方、ズルい。そんな甘えるような目、どこで覚えたんだ。
「ダメとかじゃなくて、私は……」
「でも、俺もダメだから」
力強い声が、私の言葉を遮る。
「美咲が他の人をハグするのも、他の人が美咲をハグするのも、俺は嫌だから」
大地の瞳に、いつものようなきらめきはない。
その代わり、大人っぽい熱のこもった強い眼差しがさが、私に向けられる。
そんな目で見つめられた私は、ただ震えた。
「美咲を抱きしめていいのは、俺だけだから」
その言葉に、全身が熱くなった。耐えられず、私はその場から逃げ出そうとした。だけど「美咲っ」という呼びかけと共に、一瞬で腕を掴まれた。
私はまだ、震えていた。
だから、振り絞った声も、震えていた。
「何よ、それ。なに勝手なこと言ってんの? 自分はいつも男女問わずハグしてるじゃん。嬉しそうに、へらへらしちゃって」
言ったとたん、ハグしあう光景がぱっと目に浮かんで、そこからぶわりと涙が生まれる。
「そんなの目の前で見せられて、私が喜ぶとでも思ってる? それに、私が誰かとハグするのが嫌とか言うけど、私だって軽い気持ちで誰彼構わずハグとかしたくないし」
なんでだろう。言葉を重ねるほど、涙が出てくるのは。
「私だって、嫌なんだよ。大地が誰かとハグするのも、大地じゃない人とハグするのも……」
最後まで言い切る前に、ぐっと体を引き寄せられた。
鼻先が、夏の匂いに包まれる。
灼熱の太陽に焼かれた、甲子園球場の砂の匂い。
その匂いと、ものすごくたくましい力に体が包まれて、心臓や胸までもが締め付けられる。
「もうしない」
その声が、私の力をさらに奪っていく。
「俺はもう、美咲しかハグしない」
絡みつく腕が、さらに力がこめる。何かを決意するように。
「俺のハグは、美咲だけのもの」
その力に、抗うことはできなかった。体も、心も。
「美咲」
大地の色っぽい声が、私の髪を揺する。
「俺を甲子園に連れてってくれて、ありがとう」
こういう時、震える手は、どこを目指せばいいのだろう。
こんなの初めてだから、わかんないよ。
その時、まるで助太刀にやってきましたと言わんばかりの自信のこもった声が、耳元で囁かれた。
「美咲先輩、これ、預かっときますよ」
早口でそう言うと、声の主は、私の両手をふさいでいた色紙と瓶をすっと抜き取っていった。
これまで以上に体に熱が走り、体温を急上昇させていく。
大地の胸が「ふふっ」と揺れた。
「気が利くんだか、利かないんだか」
__まったくだ。
だけどそのおかげで、解放された私の両手は、心の赴くままに求める場所にたどり着けた。
触れた瞬間、いつも見ていた大きな背中のぬくもりが、手のひらからじんわりと伝わって来た。
ほんの少し腕に力を入れただけで、そのまま大地の体の中に吸い込まれていきそうだった。
そんな不思議な初めての心地よさに、思わず目をつぶる。
これが、ハグ。
これが、君のぬくもり。君の匂い。君の感触。
これが、大地。
私の、好きな人。
もう、君のハグしかいらない。