そこは甘く優しい世界
シャワーとキス
「今日は、最悪な一日だったんです」

 レポートに使えそうな参考資料を借りて、図書館のPCで少しだけ作業を進めるまでは良かった。

 突然の激しい雷雨でブツリと画面が消えて、同時に上書き保存を忘れていたことに気付いて。大きな溜息と共に机を片付けた。

 学部棟の出口に向かってみれば、バケツを引っくり返したような大雨。空模様からして一時的なものと分かっていても、雨具の用意がない学生たちは皆同じように肩をすくめ、スマホを弄り始めた。

 そうして三十分ほど時間を潰したら、雨は止んだ。だがまた急に降られると敵わない。早足で大学の門を出て、駅に向かう。

 幸い、電車は数本ほど遅れがあったが動いていた。しかし構内は人混みと湿気で満ち、肌に張り付いた髪も相俟って気分は沈む一方だった。

「そこで痴漢に遭いました」

 嫌な予感はしていた。すし詰め状態の満員電車とはいえ、背後にいる男が不自然に体を押し付けてきたから。あと少しの辛抱と我慢しようと思ったら、とうとう臀部に手が伸びてきて。

「酷いな。……その、大丈夫だった?」

 心配そうに問われる。

「その手を叩いて、足を思い切り踏んでやったら逃げていきました。……たまにあるんです」

 カラン、と氷が音を立てた。

 二人の視線がそれぞれのグラスへ落ちたところで、小春(こはる)はよく冷えたアイスティーに口をつけた。

 渋みの強いディンブラは、それでいて後味がスッキリとしていてお気に入りの紅茶の一つだ。一口飲むと喉の渇きを自覚し、やがて麦茶のようにゴクゴクと飲み干す。

「警察には言った?」
「えっ。警察? ……言わなきゃ駄目でしたか?」
「痴漢は犯罪、ってどこの駅にもポスター貼りまくってあるんだけどな」

 彼が困ったように笑った。

「自分の体なんだから、もっと怒らないと」

 虚を衝かれた小春は黙り込み、逡巡の末に頷く。

「……確かに、そうですよね。私も、他の女の子が同じ目に遭ったら、通報しろって言うと思います」
「でしょ?」
「今まで、誰も言ってくれなかったけど……」

 ついこぼれ出てしまった恨みがましい言葉を、もごもごと濁す。彼が、アイスコーヒーを飲む寸前で動きを止めた。

「……。まだ嫌なことあった?」
「あり、ました」
「じゃあどうぞ。聞いてるから」

 小春は氷だけになったグラスを見下ろし、電車を降りた後の記憶を探る。

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