今会いに来ました。 カフェラテプリン道中記
実家からは「あいつが来ないんだけど、、、。」っていう小言をよく言われました。
そりゃそうでしょう。 「遊びに行ってくる。」って言っておいてなかなか来ないんだから。
火力発電所の辺りからは線路内にも入れましたねえ。
そこでよく汽車が通り過ぎるのを見てました。
遠賀川を越えてくるんですよね。 なんか勇ましく見えた気がするなあ。
遠賀川にはもちろん、車が渡れる橋も掛かっています。
でもね、人が渡るにはちょいと怖かったですねえ。
だってほとんど余裕が無い所を歩くんだもん。
そこで歩行者専用の橋も架けられました。 このおかげでだいぶ助かりましたね。
鯰田、、、そこは田んぼが多い町だった。
梅雨も終わるころになると「大雨で田んぼを洗ったら梅雨が終わるんだ。」って言われていた。
あの頃も橋が流されるような豪雨には遭っていました。
長崎豪雨なんて記憶に残ってますからね。
でも今の豪雨とは性格が違いますね。
確実に今の豪雨は人災です。
アスファルトジャングルが全世界に広がってしまった結果なんです。
全てをコンクリートで覆い隠す必要が有りますか? 有りません。
全てを鉄筋にする必要が有りますか? 有りません。
全てを高層ビルにする必要が有りますか? 有りません。
必要の無い所に力を入れてしまった。 その結果の豪雨です。
地球が熱と水の逃げ場を失ったがための豪雨です。
だから昭和時代とは比較にならないくらいの被害が出ているんです。
それでも人間は人災に気付かない。
むしろ科学の進歩だと喜んでいる。 それでいいんですか?
確かに不便でしたよね 昭和の時代は。
でも不便だから良かったんです。
今は便利すぎる。 だから人の繋がりが希薄になってしまった。
そう思います。
何でもネットで出来るようになってしまった。 それでいいのかな?
顔を突き合わせ、互いに納得するまで話し合う。
そんな面倒なことをずっとやってきたんですよ。 今はそんなことをしなくてもいい。
その代わりに誰がどんな人なのか分からなくなってしまった。
寂しい時代だね。
小学生の頃、虐めはとんでもない程度にひどかった。 けど、ただただ悪い時代でもなかった。
早く大人になりたいなんて思ってたなあ。 あの頃はまだ見えてたからね。
6年生になると楽しかったのは学級新聞。
それが後で役に立つことになる。
金曜日の国語の時間を潰してみんなで記事を書くんだ。 楽しかったなあ。
題字、ニュース、クイズ、漫画、コラム、 いろいろとみんなで知恵を絞って書いたんだ。
点字を使ってる人も居るからね、その人の手伝いをしながら絵を描いたりもしたっけ。
毎週毎週、発行するんだ。 学級新聞の名前は『ムーンファイブ』。
5人のクラスだったから。
仲がいいとまでは言えなかったけど、とにかく1年生からずっと一緒にやってきたんだ。
喧嘩もした。 ぼくは知らない間に仲間外れにされていた。
みんなは都会育ちなんだけど、ぼくは炭坑の寂れた町育ちだったからね。
でもさ、あれから40年が過ぎて振り返った時、みんなが完全にぼくから離れたことに気付いたよ。
会いたいとも思わなくなった。 むかつくからとか、そんなんじゃなくてね。
会うだけの意味が無いなって。 その時だけだったんだなって。
ぼくにとっての母校は無くなってしまったから。
確かに盲学校自体は今も残ってるよ。 でも先生たちはほとんど入れ替わってしまった。
お世話になった先生たちはほとんどが退職していて話せる人が居ない。 おまけに30年前の卒業生なんて浦島太郎みたいなもんだ。
それに学校自体がいろいろと変更されちゃってね。
ぼくらが通った学校は中学部までの学校になってしまったし、それ以上は高等盲学校に分離されてしまった。
だからさ、どっちに問い合わせればいいのかも分からなくてね、それなら縁を切ったほうが楽だよなって。
寂しいけどそうするしかなかった。 一度問い合わせてみたんだけど、、、。
1990年当時、30代40代だった先生たちは皆退職してるよね。
それに同級生の住所を調べたくても繋がりが無いから分からない。 それより何よりぼく自身が故郷を離れてるから分からなくなってるんじゃないのかなあ?
あの当時の住所録だって捨ててしまったしね。
中学生になった。 制服を初めて着た。
ガリガリの体にボワンボワンの制服、、、。
だって130代の身長に30代の体重、、、小さかったんだよ ぼくは。 信じられないけどね。
二十歳過ぎてもガリガリだった。 同級生たちは「歩く骨格標本」って呼んでた。
鍼灸 マッサージの勉強をしてた時には「解剖教室に行かなくてもここに骨格標本が有る。」ってみんなに言われてたよ。
ずいぶんと派手に虐められてきたからね。 精神的にはズタズタだったよ。 嘘の時間割を教えられて恥をかいたことも有る。
嘘を吐いた本人は知らん顔してたなあ。 唖然としたよ。
そんなのが親友だったんだからね。
中学生になってやっと『ザ ベストテン』も見ることが出来た。 それまでは見れなかったんだ。
アミン、松田聖子、近藤真彦、一風堂、クリエーション、いろんな人たちが居たなあ。
勉強はというと、これまた楽しみだった。 特に英語はね。
その時の教科担任に勧められて教師の補佐をやってたんだ。
その年から本格的に点字を使い始めた同級生にクイズを出す。
そして全盲の同級生の手を取って黒板にアルファベットを書いていく。 不思議な感覚だった。
不思議にも気が合ったのか、それとも何か理由が有ったのか知らないけれど。
そりゃそうでしょう。 「遊びに行ってくる。」って言っておいてなかなか来ないんだから。
火力発電所の辺りからは線路内にも入れましたねえ。
そこでよく汽車が通り過ぎるのを見てました。
遠賀川を越えてくるんですよね。 なんか勇ましく見えた気がするなあ。
遠賀川にはもちろん、車が渡れる橋も掛かっています。
でもね、人が渡るにはちょいと怖かったですねえ。
だってほとんど余裕が無い所を歩くんだもん。
そこで歩行者専用の橋も架けられました。 このおかげでだいぶ助かりましたね。
鯰田、、、そこは田んぼが多い町だった。
梅雨も終わるころになると「大雨で田んぼを洗ったら梅雨が終わるんだ。」って言われていた。
あの頃も橋が流されるような豪雨には遭っていました。
長崎豪雨なんて記憶に残ってますからね。
でも今の豪雨とは性格が違いますね。
確実に今の豪雨は人災です。
アスファルトジャングルが全世界に広がってしまった結果なんです。
全てをコンクリートで覆い隠す必要が有りますか? 有りません。
全てを鉄筋にする必要が有りますか? 有りません。
全てを高層ビルにする必要が有りますか? 有りません。
必要の無い所に力を入れてしまった。 その結果の豪雨です。
地球が熱と水の逃げ場を失ったがための豪雨です。
だから昭和時代とは比較にならないくらいの被害が出ているんです。
それでも人間は人災に気付かない。
むしろ科学の進歩だと喜んでいる。 それでいいんですか?
確かに不便でしたよね 昭和の時代は。
でも不便だから良かったんです。
今は便利すぎる。 だから人の繋がりが希薄になってしまった。
そう思います。
何でもネットで出来るようになってしまった。 それでいいのかな?
顔を突き合わせ、互いに納得するまで話し合う。
そんな面倒なことをずっとやってきたんですよ。 今はそんなことをしなくてもいい。
その代わりに誰がどんな人なのか分からなくなってしまった。
寂しい時代だね。
小学生の頃、虐めはとんでもない程度にひどかった。 けど、ただただ悪い時代でもなかった。
早く大人になりたいなんて思ってたなあ。 あの頃はまだ見えてたからね。
6年生になると楽しかったのは学級新聞。
それが後で役に立つことになる。
金曜日の国語の時間を潰してみんなで記事を書くんだ。 楽しかったなあ。
題字、ニュース、クイズ、漫画、コラム、 いろいろとみんなで知恵を絞って書いたんだ。
点字を使ってる人も居るからね、その人の手伝いをしながら絵を描いたりもしたっけ。
毎週毎週、発行するんだ。 学級新聞の名前は『ムーンファイブ』。
5人のクラスだったから。
仲がいいとまでは言えなかったけど、とにかく1年生からずっと一緒にやってきたんだ。
喧嘩もした。 ぼくは知らない間に仲間外れにされていた。
みんなは都会育ちなんだけど、ぼくは炭坑の寂れた町育ちだったからね。
でもさ、あれから40年が過ぎて振り返った時、みんなが完全にぼくから離れたことに気付いたよ。
会いたいとも思わなくなった。 むかつくからとか、そんなんじゃなくてね。
会うだけの意味が無いなって。 その時だけだったんだなって。
ぼくにとっての母校は無くなってしまったから。
確かに盲学校自体は今も残ってるよ。 でも先生たちはほとんど入れ替わってしまった。
お世話になった先生たちはほとんどが退職していて話せる人が居ない。 おまけに30年前の卒業生なんて浦島太郎みたいなもんだ。
それに学校自体がいろいろと変更されちゃってね。
ぼくらが通った学校は中学部までの学校になってしまったし、それ以上は高等盲学校に分離されてしまった。
だからさ、どっちに問い合わせればいいのかも分からなくてね、それなら縁を切ったほうが楽だよなって。
寂しいけどそうするしかなかった。 一度問い合わせてみたんだけど、、、。
1990年当時、30代40代だった先生たちは皆退職してるよね。
それに同級生の住所を調べたくても繋がりが無いから分からない。 それより何よりぼく自身が故郷を離れてるから分からなくなってるんじゃないのかなあ?
あの当時の住所録だって捨ててしまったしね。
中学生になった。 制服を初めて着た。
ガリガリの体にボワンボワンの制服、、、。
だって130代の身長に30代の体重、、、小さかったんだよ ぼくは。 信じられないけどね。
二十歳過ぎてもガリガリだった。 同級生たちは「歩く骨格標本」って呼んでた。
鍼灸 マッサージの勉強をしてた時には「解剖教室に行かなくてもここに骨格標本が有る。」ってみんなに言われてたよ。
ずいぶんと派手に虐められてきたからね。 精神的にはズタズタだったよ。 嘘の時間割を教えられて恥をかいたことも有る。
嘘を吐いた本人は知らん顔してたなあ。 唖然としたよ。
そんなのが親友だったんだからね。
中学生になってやっと『ザ ベストテン』も見ることが出来た。 それまでは見れなかったんだ。
アミン、松田聖子、近藤真彦、一風堂、クリエーション、いろんな人たちが居たなあ。
勉強はというと、これまた楽しみだった。 特に英語はね。
その時の教科担任に勧められて教師の補佐をやってたんだ。
その年から本格的に点字を使い始めた同級生にクイズを出す。
そして全盲の同級生の手を取って黒板にアルファベットを書いていく。 不思議な感覚だった。
不思議にも気が合ったのか、それとも何か理由が有ったのか知らないけれど。