今会いに来ました。 カフェラテプリン道中記

3.

 6年生の秋、ぼくは長崎大学病院の形成外科に入院した。
生まれつきの言語障害が有るからね。
 口蓋裂 口唇裂が有るんだ。 なぜそうなったのかは分からない。
 口蓋裂 口唇裂は取り合えず生まれて間もないころに九州大学病院で手術を受けていたんだけど、再手術をって話になってね。

 大学病院に入院するのはしばらくぶりだった。 10月だったね。
その頃のぼくはすごい上がり症で、人前ではなかなか話せなかったんだ。 今では信じられないくらいにね。
 病室は6人部屋だった。 子供ばかりだから賑やかだったよね。
 母さんは暇潰しになればっていろんな本を買ってくれた。 漫画も有ったなあ。
 1年下の男の子とは仲良しになって、病棟の中を毎日走り回っていた。
 看護師さんたちからは「元気なのは分かったから走り回らないで。」っていつも注意されたっけ。

 手術は全身麻酔だった。 でもね、その麻酔からなかなか覚めなくて大変だったよ。
体が重くて簡単には動かせなかった。
おまけに膀胱カテーテルが入ってるから排尿も大変。
終いにはお漏らししてしまって気まずい思いもしたんだよなあ。(笑)
 術後、流動食用のチューブが入ってるから口からの飲食は出来ない。
しかも鼻が塞がっていて通せないから口から胃に通してある。 なかなかに邪魔なんだよね これは。
それでさ、つい噛んじゃって何本も穴を開けて先生たちに怒られた。
 それにこの期間は声も出せない。 大変だったねえ。
 形成外科にはいろんな子供たちが入院してくる。
外耳「耳の外側」が無い子、六本目の指が延びている子、上唇が無い子、、、。
そして口蓋裂 口唇裂を持っている子、、、。
 その赤ちゃんを見た時、(俺もこうだったんだな。)って思わず見とれてしまった。
その子のお母さんは「可愛いでしょう?」って言ったんだよね。 若い人だった。
11歳の頃だから44年前の話だ。
 あの当時、覚えているのは夢遊病じゃないかって思われるくらいに寝ぼけて動き回ること。
子供が多い部屋だったからベッドにもしっかりした柵が付けられていたんだけど、それを乗り越えて派手にジャンプしたことも有る。
ジャンプしたついでに流動食のチューブが引っかかって飛んでいくことだってしょっちゅうだったな。
 1年下の男の子、博之君【仮名】とはよく地下へハンバーガーを買いに行ったもんだよなあ。
そう、地下のエレベーター付近にハンバーガーを売っている自販機が有ったんだ。
その話をするとね、付き添いで来ているお母さんたちが「買ってきて。」って頼むんだよ。 それで二人で買いに走ったんだ。
 でもそこは地下一階。 すぐそばには霊安室が有る。
ちょいと重たい空気を感じさせる所に自販機が置いてあるんだ。 おっかなかったなあ。
 んで、ぼくの手術は一回だけじゃなかった。 唇に残っている口唇裂の跡をなんとかしようとして二回目が行われた。
でも結果は効無しだった。 残念。

 さてさていよいよ中学生です。 1981年のことでしたね。
何が嬉しかったって? 9時を過ぎても起きていられることだ。
そして9時を過ぎてもテレビを見れたこと。 初めてベストテンを見たんだよ。
この年は寺尾聡が大ブレークした年だね。 そしてアミン。
松田聖子もトップアイドルに駆け上った年だね。 すごかった。
 そしてそして念願だった野球部に入ったんだ。 でも貰ったのは帽子だけ。
その当時、まだまだ130センチ代の身長だったからユニフォームが合わなくてさ、、、。
だから部活に出ても球拾いしかさせてもらえないんだ。 後は全盲の先輩のベースランニングをサポートすること。
 視力障碍者だって野球をやるんだよ。 ボールを転がしてね。
 ほとんどの守備は弱視の人がやってる。 全盲であればサードとショートの間に座らせてもらうんだ。
そして全盲の選手がキャッチすれば一発アウトっていうルールが有る。
高校野球やプロ野球と違って賑やかなブラスや応援団は無い。
静かなもんだよ 盲人野球って。
それでもぼくはレギュラーを夢に見ていた。 失明するまではね。
 部活が終わると全盲の人たちも連れて校舎を出る。 夕暮れの風景は好きだった。
盲学校前のバス停から西鉄 朝倉街道駅へ向かう。 そしたらみんなを先に行かせておやつのパンを買いに走る。
ホームに飛び込んだらレモンジュースを買って飲みながら電車に揺られる。
西鉄と国鉄がクロスしている所が有る。 時間帯が合えば通過するブルートレインも見れたからマニアには堪らない場所だった。
 あの当時、日本全国をブルートレインが駆け巡っていた。 〈はやぶさ〉とか〈富士〉は有名中の有名だね。
一度は乗りたいと思っていたけど、最後まで乗る機会は無かった。
 ぼくもね、小学生の頃から虐められてきた一人だよ。 田舎に住んでるってことだけで仲間外れにされてきた。
もちろん、それは最後の最後まで変わらなかった。 でも悔しいとは思わなかったな。
それに口蓋裂が有ると言語障害も甚だしくなる。 インベーダーとか異星人とかいうニックネームも貰ったよ。
 小学生の頃だったかな。 社会科の担当だった先生からこう言われた。
「お前が喋ってることは分からん。 松下に通訳してもらうわ。」
 今だったら差別だ何だって騒ぎになるようなことだけど、当時は面と向かって言えなかったなあ。
 フラッとニュースを読んでみた。 虐められて自殺した子供たちはあまりにも軽く扱われてるな。
 でもね、虐めてた連中には虐めてたっていう意識がまるで無いのも事実なんだ。 意識して虐めてるわけじゃないから。
じゃあ何で虐めるの? みんながやってるから。
自然と変な全体意識が芽生えてくるんだね。 やらないと自分が仲間外れにされるって。
 そこを教師も親も見抜けない。 子供に何も言えない大人が増えてしまっている。
 温泉やバスの車内などで騒いだり走り回ったりしている子供に注意できない大人たちが増えてしまったように、虐めている子供に対しても何も言えなくなっている。
 そのくせ、教育の平等だとか何だとか偉そうにおっしゃるから子供たちはますます変な方向へ歪んでしまう。
 虐め問題が明らかになり、第三者委員会が調査に入る。 でも委員会はあくまでも委員会。
調査結果は公表されてもそれが改革に繋がらない。 子供たちの意識すら変えられない。
その結果、虐められた子供は何年経っても認められることすら無い。 自殺しても何をしても何とも思われない。
 そんなんでいいのか? まあ、虐めに対して行政から処罰が有るわけじゃないし、補導されるわけでもない。
虐めたからと言って社会的制裁が科せられるわけでもないから罪の意識も無いわけだ。 そんな子供たちに分かれと言っても無理だろう。
 おそらくは親だって「何で今さら、、、。」だろうし、謝罪を求めたって詫びるとは思えない。
結局は虐められた側が一生涯 十字架を背負って生きるしか無くなる。 これじゃああんまりだよ。
 大変なことをやったんだっていうことを認識させるためにはどうするか? 難しいけどやれることをやるしかない。
 推薦入学なんてとんでもない話だよ。 そんなのは厳禁だね。
それだから虐めた側の子供たちは改心すらしなくなる。 選ばれた人間みたいにさ。
 今からでもボコボコにしてやりたいくらいだよ。 自分たちのせいじゃないって思ってるのもどうかしてるよね。
 学生時代、陰に陽にぼくも虐められてきたよ。 なんとかして反撃したかった。
でも出来なかった。 だからここまで生きてきた。
人生の中でやつらを見返してやろうって思ってね。 辛かったし長かった。
死にたかったよ。 でも死ねなかった。
やつらに負けたことになるから。
< 17 / 24 >

この作品をシェア

pagetop