今会いに来ました。 カフェラテプリン道中記
 中学生になる時、ぼくはいくつかの請願を卒業文集に書いた。
一つは野球部に入ること。 入れたけどレギュラーにはなれなかった。
そして家から通学すること。 一週間だけ試しにやらせてもらった。
 でもね、それから学園に帰った後で失明するんだ。 信じられなかった。
 小学生の頃、毎晩のように殴られたり蹴られたり飛ばされたり、男のおもちゃにされたり、さんざんな目に遭ってきてぼくは壊れかけていた。
 それだから生意気に感じられたりしたのかもしれない。 そして女の子にいたずらもした。
 それを知って激怒した先輩にボコボコにされたんだ。 気を失いかけるくらいにね。
それから一カ月後、二学期の中間考査の時だった。 一日目の試験前日、勉強中のぼくは何かを感じた。
 右目の左上の隅に赤いような黒いような点を見付けたんだ。 不思議だなって思った。
 でもね、朝 起きてみたら赤い点は全体に広がっていた。
まともに前が見えない状態で学校へ行き、問題用紙を渡された。 でも見えなかった。
 学校から帰って来て眼下に飛び込んだ。 眼底検査の結果は最悪だった。
 「眼底出血をしています。 網膜剥離の可能性が有り、失明する恐れが有ります。」
 ところがね、学園の職員は『なぜこうなったのか?』を追求しなかった。
調べて行けば先輩の行き過ぎた暴力は明らかになったはずなのに、、、。 それには蓋がされてしまった。
だから責任を取らせることも賠償させることも出来なかったんだ。
母さんだって「お前が悪いことをしたんだろう。」って言うだけだった。
 その先輩は石頭で有名だった。 そいつの頭突きを何度も食らって立てないくらいにフラフラになったんだ。
後で頭を触っていたら骨がへこんでいるのにも気付いた。 折れなかったのが不思議だった。
折れていたら間違いなく先輩は少年院送りにされていたかもね。

 そんなわけで終にぼくは失明してしまった。 新聞だって読めていたのに。
それから43年が経った今、そんな先輩を怨む気にもなれなくなったよ。 恨んだってどうしようもないじゃない。
それよりもぼくがぼくとして人生に勝てばいい。 そう思ってここまで歩いてきた。 無茶もしたけど。
一人前どころか三人前の鍼灸師になってやろうと思って自分を磨いてきた。 それに悔いは無い。
いろんな患者さんに体当たりでぶつかってきたし、悩みもした。 その中で勝ってきたんだ。
 恩師が「お前は本物になれ。 他のやつらはどうでもいいからお前だけは本物になれ。」って言ってくれた意味がようやっと分かったんだ。
 そりゃさあ、未だに低空飛行の鍼灸師だよ。 でもそれはそれでいい。
必ず舞い上がって見せるから。

 失明したぼくは実家に帰ってきた。 寝てるだけなら実家に居たほうがいいなと思って。
でも祖母はぼくに唾を吐いた。 「お前は私のお荷物だ。」ってね。
だから親戚が来てもぼくには会わせなかった。 みんなが楽しく食事をしていてもぼくは一人だった。
悔しかったよ。 情けなかったよ。
 ちょうど、東北新幹線が開業して松田聖子が『風立ちぬ』から『赤いスイートピー』を歌っていた頃だ。
中学1年の担任は「このままでは留年してしまいます。」って母さんに訴えた。 母さんは絶対にそれを認めなかった。
それが良かったのか悪かったのか、、、。
 そのクラスメートとは福岡を離れた後、これまでついに会うことは無かった。 まあね、学園が閉鎖するっていう時に何人かは有ったけど、、、。
親友でさえ会うことは無かったんだ。 それだけだったんだよ。
 実家に居る間、ぼくはずっと一人だった。 親戚が来ても話すことすら無かった。
寒い部屋で布団に包まってラジオを聞いていた。 それしか無かったんだ。
 食事だってまともにあり付けなかったよ。 朝も寝てるから用意されてなかったんだ。
だからさ、その辺の食べれそうな物を引っ張り出して食べてた。 ばあちゃんはぼくを「泥棒」って呼んだよ。
 その頃からだね、本気でばあちゃんと仲が悪くなったのは。 金にしか興味が無い人だった。
 気付いたらぼくらはばあちゃんにさんざん名義を使われていた。 貯金を太らせるためにさ。
その金をうまく使っていたのは叔母。 ぼくらには1円のメリットも無かったよ。
悔しかったねえ。 でもさ、これまた恨んでも悔やんでも始まらない。
 ぼくが福岡を離れた後、叔母でさえ縁を切ったんだから。
 確かに母さんは高校を中退してるし、父さんは元炭鉱マン。
妹だって頭がいいとは言えない。 おまけにぼくは視力障碍で盲学校に通っている。
何処から見てもエリートじゃないさ。 それだっていいだろう?
ぼくらはぼくらなりにここまで生きてきたんだ。
 叔母は昼間 洋裁を習いながら夜は県内トップクラスの高校の通信制で勉強してた。
その後、結婚した彼氏はトラックの運転手だった。
息子は今 郵便局で働いてるし、娘は岡山で家を建てたという。
 そりゃあ自慢したくなるよねえ。 でもさ、自慢してどうするの?
その自慢はこの世限りなんだよ。 自慢したって無意味なんだ。
 その傲慢でぼくらはずっと虐められてきた。
 義父の姪が言ってたね。 「あの人は人に喜んでもらったことが無い寂しい人なんだね。」って。
 財布にお金はたくさん有っても心には何も無かった。 可哀そうすぎる叔母だったんだ。
 誰かの名言を思い出す。
 「蔵の財より身の財優れたり。 身の財より心の財第一なり。」
 叔母を見ながらぼくは思った。
 何百億も財産をもってひっくり返るくらいの豪邸で荘厳な宝物に囲まれて生きてる人よりも、安いアパート暮らしでも友達が多いほうが幸せだな。」って。
だからね、ぼくはいつでも心を繋ごうと思っている。 大変なことも有るけど。
 失明して学校に戻ってきたのはいいけれど、周りの雰囲気はすっかり変わっていた。
そりゃそうだよ。 これまでは見えてたから走り回ったりいたずらしたり、、、。 それが出来なくなったんだもん。
それまで読んでいた本もみんな読めなくなっちゃった。 悲し過ぎたよ。
 もちろん、家に帰る途中で立ち寄っていた本屋にも寄れなくなった。 出来ることは何も無くなった。
そうやって昼休みも暇を持て余していたんだ。 そしたら、、、。
 「お前さあ、暇やろう? 付き合え。」って誘われた。
相手は九州交響楽団でトロンボーンを吹いていたあの先生だ。 何をやるのかと思ったらアルトリコーダーを渡された。
 そう、豊島先生はリコーダー同好会の顧問だったんだ。 それからぼくはクラシックにのめり込むことになる。
 クラシックとはいってもバロック時代が中心。 スカルラッティー バッハ その他、、、。
 最初はね、アルトリコーダーを吹くのもやっとだった。 右手の小指が届かなくて。
それでもさ、必死になって吹きまくった。 それから8年後、福岡盲最後の文化祭ではソロを任されるまでになったんだ。
 昼休みだって踊り場で吹き明かしたよ。 没頭してたな。
 ばあちゃんたちはそれを見て「あいつはとうとう頭がおかしくなったぞ。 豊島先生が音楽なんて教えるもんだから、、、。」って陰口を叩いていた。
 何をやっても何を見ても陰口を叩くことしか出来ない人たちだったんだね。 可哀そうに。
 そんなわけで中学生の時から全盲男子なんです ぼく。
 新聞だって平気で読んでいたぼくが失明するなんて思わなかった。 人生終わった気がした。
でもそれが本当の人生の始まりだったんだね。 43年が過ぎてそう思えるようになった。
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