キツネの嫁入り
嫁入り
「ここか…」
笹岡風花は買ったばかりのキャリーバッグを片手に大きなリュックを背負い直して屋敷を見上げた。歴史を感じさせる大きな屋敷は手入れが行き届いているようで、門の隙間から見える植木はきれいに整っている。
東京都内から電車で少し行った街の高台にこの屋敷はあった。周りも大きな家ばかりでいかにも高級住宅街といった感じだ。
インターホンを押す前に風花はひとつ息をつき、こうなった経緯を思わず思い返した。
「結婚!?」
風花は朝食の味噌汁を吹き出しそうになりながら祖父に聞き返した。無事、都内の大学への進学が決まった2日後のことだった。
「どういうこと!?」
祖父は風花の動揺には気にも留めていない様子で落ち着いた調子で話し出した。
「いやね、風花の父さんが随分前に古い知り合いと風花とその方のお孫さんの結婚を約束していたようでね、それでその方が風花をぜひうちに迎えたいっておっしゃってるんだよ」
風花の父親は10年前に交通事故で亡くなっている。母親は風花が幼稚園のころに1人で家を出た。風花は父の死後、ずっと祖父母と暮らしてきた。
「そんなの初耳。相手は?ていうか私その人と暮らすの?大学は?」
風花は混乱した頭で思いつく疑問をこぼした。
「相手は一条文哉さんといってね。歳は25だったかな。その人の家で暮らして大学もそこから通うことになるよ」
25!?風花は心の中で繰り返した。まだ彼氏もいたことないのに結婚?いや無理無理無理。
風花は脳内でそう結論付ける。
「急な話でごめんね。でもね私たちなりに考えたのよ」
今まで黙っていた祖母が申し訳なさそうな表情で口を開いた。
「私たちももう歳でしょう。いろいろ体の具合もよくないし、あんまり考えたくないけど風花がひとりぼっちにならないようにしたいなって」
風花は祖父母のことを思うと何も言えなくなった。祖父母なりの愛情なのである。少々強引でももう風花が一人になることがないようにと、それだけを願ってやまないのだ。
結局風花は結婚を受けることにした。一人暮らしをする予定だったがそれは取りやめになり、一条家に下宿するということで話はまとまった。祖父母の気持ちを無碍にするわけにもいかず、学費の負担もしてくれるという虫が良すぎる話を若干疑いつつもそれはそれで助かると自分に言い聞かせた。
風花は頭に落ちてきた水滴によって回想から引き戻された。天気雨のようで、春の暖かい日差しはまだ風花に降り注いでいる。
「よしっ」
風花は小さく気合を入れインターホンを押した。
「はい」
「あの、今日からここでお世話になります笹岡風花です」
「少々お待ちください」
その声の間もなく、小柄な女性が門を開けた。
「お待ちしておりました。私この家のハウスキーパーの松崎洋子と申します。」
丁寧な口調で名乗った女性は50代後半くらいで柔らかい笑顔を見せた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。ではどうぞ中へ」
歴史を感じる外観同様、中も古めかしいが掃除が行き届いていてどこもピカピカで気持ちがいい。
「お部屋にご実家からの荷物が置いてあります」
洋子は玄関近くの階段を上りながら説明した。
「ここが風花さんのお部屋です。」
風花の部屋は廊下の突き当りから2つ目の部屋だった。部屋にはベッドと机、クローゼット、本棚、ドレッサーがおいてあり、奥には出窓があった。
「こちらの家具、自由に使ってくださいね」
「ありがとうございます」
風花は出窓から外を眺める。高台に段々に建てられた家が見えていい眺めだと思った。
「あら、もういらしたのね」
ドアから聞こえる上品の声に風花は振り向いた。
「あ、葉月さん」
葉月さんと呼ばれた女性は栗色の髪をウエーブにしてふんわりとした雰囲気の女性である。
「はじめまして。私文哉の姉の一条葉月です。よろしくね」
葉月は親しげな笑みを浮かべてそう言った。
「笹岡風花です。よろしくお願いします。」
風花は頭を下げる。お姉さんがいることは聞いてきたが美人で慄く。
「あまり緊張しないでね」
内心慄いていた風花の様子を見たのか葉月は言った。
「もう文哉は顔出しました?」
葉月は洋子にそう尋ねた。
「いえ」
「失礼ね。せっかくいらしてくださったのに」
葉月はそう呟き風花に向き直った。
「一緒に行きましょう。それに屋敷の案内もしなくてはいけないし」
風花の部屋と大して変わらないその部屋の扉は風花には鉄の扉のように固く重いものに見えた。
めっちゃ怖い人だったらどうしよう、庶民めとか見下されたらどうしようなどと風花は考えを巡らせる。風花は文哉の顔すら知らなかった。顔を見て判断するのは嫌だったからであるが、今になってすごく不細工でもすごくイケメンでも嫌だとわがままが出る。
風花の部屋の1つ隣は空き部屋でその隣は葉月、廊下を曲がってその隣が文哉の部屋らしい。
「文哉、風花さんいらしたわよ」
葉月はそういうとあっさり扉を上げた。
部屋は風花の部屋より広く。無駄なものも少なかった。部屋の奥に涼しい顔でパソコンを見つめている人がいる。
「ああ」
こちらを一瞥して立ち上がった。
「ああじゃないでしょう」
葉月がたしなめるのを聞いているのかいないのか、文哉はすたすたとこちらに向かってきた。
「一条文哉です。よろしく」
そう言って風花に片手を差し出した。
「こちらこそ、どうぞよろしく」
風花も握手に応じ手を差し出し、顔を見上げた。うげ、めちゃくちゃイケメンだと風花は思った。
春の日が当たるテラスは心地よかった。
「ごめんね。文哉愛想悪くて」
葉月は申し訳なさそうに謝った。あの後屋敷を案内してもらい、今はテラスで昼食のサンドイッチのいただいている。
「いいえ」
愛想が悪いと思ったのは噓ではない。にこりともせず大した話もせず仕事に戻ってしまった。あの人と結婚するなんて信じがたい。というか相手が誰であれ結婚するという意識は風花の中でまだ薄いものだった。
「風花さん、私が聞くのも変だけど、どうしてこの話受けてくれたの?」
葉月に聞かれ風花は少し黙った。口で説明するのは難しい。
「祖父と祖母が随分私のこと心配してるみたいだから。私親がいないので」
「そうだったの。ごめんなさい」
「あ、いえ」
父も母もいないのにはすっかり慣れた。
「そういえばすっかり天気雨やみましたね」
風花は話をそらそうとさっきの天気の話を持ち出した。風花が来た時に降っていた天気雨はしばらくしてやみ、もうすっかりただの晴れに戻っている。
「そうなの?じゃああの話は本当だったのね」
「話って?」
風花は思わず尋ねた。
「一条家にお嫁が来る日は必ず天気雨が降るって話よ。お母さんもお祖母ちゃまのときも天気雨が降ったって話で、お祖母ちゃま曰く私のひいおばあさんとときも降ったらしいのよ」
あれ、こういうのなんて言うんだっけと風花は考える。
「まるで狐の嫁入りよね」
葉月の言葉でああそうだと思う。
「今度のお母さんにあったら教えてあげて。多分面白がるから」
「あの、お母さまは?」
「病気で長く入院してるのよ。今度会いに行きましょう。父は仕事で家を空けることが多くてしばらく帰ってこないと思うわ。だから普段家にいるのは私と文哉と洋子さんと庭師の木村さん。木村さんは運転手も兼任してくれているのよ」
なるほどと風花は頷く。
「まあ今日からここが風花さんの家なんだし緊張しないでね」
葉月の言葉に風花は曖昧に頷いた。
夕食は7時だから、という葉月の言葉を忘れないようにと心の中で繰り返し、風花は部屋に戻った。今日持ってきた荷物と実家から送った段ボールを片付ける必要があったがなんとも力が入らない。
果たしてやっていけるのか。やっていけなくてもここに住むしかない。ずっと祖父と祖母の世話になるつもりもなかった。それにわたしが帰ったら2人が責任を感じることは目に見えている。優しいのだ。
風花は気合を入れ直して庭に出た。部屋の出窓からも見えた庭は高台の下の街がよく見える。風花は携帯を出して写真を1枚撮った。
「別に写真を撮るほどじゃないだろう」
不意に声をかけられて風花は振り向く。文哉だ。
「私にはいい景色だったので」
ちょうど夕日がかかって美しい眺めだった。
「そうか」
文哉はそれだけ言うと風花の隣に並んだ。
「別に嫌なら帰っていいんだぞ」
文哉の言葉に風花は顔を見上げる。
「俺の祖父さんが古い約束を引っ張り出してきたんだ。律儀に付き合うこともない」
「私に、帰れる家はないので」
風花はしばらく考えてその言葉を出した。ちょっと語弊があるかと言ったあと思ったが訂正するのも変なので目を逸らさず文哉を見た。
文哉はそうかとまた言うと屋敷に戻った。
笹岡風花は買ったばかりのキャリーバッグを片手に大きなリュックを背負い直して屋敷を見上げた。歴史を感じさせる大きな屋敷は手入れが行き届いているようで、門の隙間から見える植木はきれいに整っている。
東京都内から電車で少し行った街の高台にこの屋敷はあった。周りも大きな家ばかりでいかにも高級住宅街といった感じだ。
インターホンを押す前に風花はひとつ息をつき、こうなった経緯を思わず思い返した。
「結婚!?」
風花は朝食の味噌汁を吹き出しそうになりながら祖父に聞き返した。無事、都内の大学への進学が決まった2日後のことだった。
「どういうこと!?」
祖父は風花の動揺には気にも留めていない様子で落ち着いた調子で話し出した。
「いやね、風花の父さんが随分前に古い知り合いと風花とその方のお孫さんの結婚を約束していたようでね、それでその方が風花をぜひうちに迎えたいっておっしゃってるんだよ」
風花の父親は10年前に交通事故で亡くなっている。母親は風花が幼稚園のころに1人で家を出た。風花は父の死後、ずっと祖父母と暮らしてきた。
「そんなの初耳。相手は?ていうか私その人と暮らすの?大学は?」
風花は混乱した頭で思いつく疑問をこぼした。
「相手は一条文哉さんといってね。歳は25だったかな。その人の家で暮らして大学もそこから通うことになるよ」
25!?風花は心の中で繰り返した。まだ彼氏もいたことないのに結婚?いや無理無理無理。
風花は脳内でそう結論付ける。
「急な話でごめんね。でもね私たちなりに考えたのよ」
今まで黙っていた祖母が申し訳なさそうな表情で口を開いた。
「私たちももう歳でしょう。いろいろ体の具合もよくないし、あんまり考えたくないけど風花がひとりぼっちにならないようにしたいなって」
風花は祖父母のことを思うと何も言えなくなった。祖父母なりの愛情なのである。少々強引でももう風花が一人になることがないようにと、それだけを願ってやまないのだ。
結局風花は結婚を受けることにした。一人暮らしをする予定だったがそれは取りやめになり、一条家に下宿するということで話はまとまった。祖父母の気持ちを無碍にするわけにもいかず、学費の負担もしてくれるという虫が良すぎる話を若干疑いつつもそれはそれで助かると自分に言い聞かせた。
風花は頭に落ちてきた水滴によって回想から引き戻された。天気雨のようで、春の暖かい日差しはまだ風花に降り注いでいる。
「よしっ」
風花は小さく気合を入れインターホンを押した。
「はい」
「あの、今日からここでお世話になります笹岡風花です」
「少々お待ちください」
その声の間もなく、小柄な女性が門を開けた。
「お待ちしておりました。私この家のハウスキーパーの松崎洋子と申します。」
丁寧な口調で名乗った女性は50代後半くらいで柔らかい笑顔を見せた。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。ではどうぞ中へ」
歴史を感じる外観同様、中も古めかしいが掃除が行き届いていてどこもピカピカで気持ちがいい。
「お部屋にご実家からの荷物が置いてあります」
洋子は玄関近くの階段を上りながら説明した。
「ここが風花さんのお部屋です。」
風花の部屋は廊下の突き当りから2つ目の部屋だった。部屋にはベッドと机、クローゼット、本棚、ドレッサーがおいてあり、奥には出窓があった。
「こちらの家具、自由に使ってくださいね」
「ありがとうございます」
風花は出窓から外を眺める。高台に段々に建てられた家が見えていい眺めだと思った。
「あら、もういらしたのね」
ドアから聞こえる上品の声に風花は振り向いた。
「あ、葉月さん」
葉月さんと呼ばれた女性は栗色の髪をウエーブにしてふんわりとした雰囲気の女性である。
「はじめまして。私文哉の姉の一条葉月です。よろしくね」
葉月は親しげな笑みを浮かべてそう言った。
「笹岡風花です。よろしくお願いします。」
風花は頭を下げる。お姉さんがいることは聞いてきたが美人で慄く。
「あまり緊張しないでね」
内心慄いていた風花の様子を見たのか葉月は言った。
「もう文哉は顔出しました?」
葉月は洋子にそう尋ねた。
「いえ」
「失礼ね。せっかくいらしてくださったのに」
葉月はそう呟き風花に向き直った。
「一緒に行きましょう。それに屋敷の案内もしなくてはいけないし」
風花の部屋と大して変わらないその部屋の扉は風花には鉄の扉のように固く重いものに見えた。
めっちゃ怖い人だったらどうしよう、庶民めとか見下されたらどうしようなどと風花は考えを巡らせる。風花は文哉の顔すら知らなかった。顔を見て判断するのは嫌だったからであるが、今になってすごく不細工でもすごくイケメンでも嫌だとわがままが出る。
風花の部屋の1つ隣は空き部屋でその隣は葉月、廊下を曲がってその隣が文哉の部屋らしい。
「文哉、風花さんいらしたわよ」
葉月はそういうとあっさり扉を上げた。
部屋は風花の部屋より広く。無駄なものも少なかった。部屋の奥に涼しい顔でパソコンを見つめている人がいる。
「ああ」
こちらを一瞥して立ち上がった。
「ああじゃないでしょう」
葉月がたしなめるのを聞いているのかいないのか、文哉はすたすたとこちらに向かってきた。
「一条文哉です。よろしく」
そう言って風花に片手を差し出した。
「こちらこそ、どうぞよろしく」
風花も握手に応じ手を差し出し、顔を見上げた。うげ、めちゃくちゃイケメンだと風花は思った。
春の日が当たるテラスは心地よかった。
「ごめんね。文哉愛想悪くて」
葉月は申し訳なさそうに謝った。あの後屋敷を案内してもらい、今はテラスで昼食のサンドイッチのいただいている。
「いいえ」
愛想が悪いと思ったのは噓ではない。にこりともせず大した話もせず仕事に戻ってしまった。あの人と結婚するなんて信じがたい。というか相手が誰であれ結婚するという意識は風花の中でまだ薄いものだった。
「風花さん、私が聞くのも変だけど、どうしてこの話受けてくれたの?」
葉月に聞かれ風花は少し黙った。口で説明するのは難しい。
「祖父と祖母が随分私のこと心配してるみたいだから。私親がいないので」
「そうだったの。ごめんなさい」
「あ、いえ」
父も母もいないのにはすっかり慣れた。
「そういえばすっかり天気雨やみましたね」
風花は話をそらそうとさっきの天気の話を持ち出した。風花が来た時に降っていた天気雨はしばらくしてやみ、もうすっかりただの晴れに戻っている。
「そうなの?じゃああの話は本当だったのね」
「話って?」
風花は思わず尋ねた。
「一条家にお嫁が来る日は必ず天気雨が降るって話よ。お母さんもお祖母ちゃまのときも天気雨が降ったって話で、お祖母ちゃま曰く私のひいおばあさんとときも降ったらしいのよ」
あれ、こういうのなんて言うんだっけと風花は考える。
「まるで狐の嫁入りよね」
葉月の言葉でああそうだと思う。
「今度のお母さんにあったら教えてあげて。多分面白がるから」
「あの、お母さまは?」
「病気で長く入院してるのよ。今度会いに行きましょう。父は仕事で家を空けることが多くてしばらく帰ってこないと思うわ。だから普段家にいるのは私と文哉と洋子さんと庭師の木村さん。木村さんは運転手も兼任してくれているのよ」
なるほどと風花は頷く。
「まあ今日からここが風花さんの家なんだし緊張しないでね」
葉月の言葉に風花は曖昧に頷いた。
夕食は7時だから、という葉月の言葉を忘れないようにと心の中で繰り返し、風花は部屋に戻った。今日持ってきた荷物と実家から送った段ボールを片付ける必要があったがなんとも力が入らない。
果たしてやっていけるのか。やっていけなくてもここに住むしかない。ずっと祖父と祖母の世話になるつもりもなかった。それにわたしが帰ったら2人が責任を感じることは目に見えている。優しいのだ。
風花は気合を入れ直して庭に出た。部屋の出窓からも見えた庭は高台の下の街がよく見える。風花は携帯を出して写真を1枚撮った。
「別に写真を撮るほどじゃないだろう」
不意に声をかけられて風花は振り向く。文哉だ。
「私にはいい景色だったので」
ちょうど夕日がかかって美しい眺めだった。
「そうか」
文哉はそれだけ言うと風花の隣に並んだ。
「別に嫌なら帰っていいんだぞ」
文哉の言葉に風花は顔を見上げる。
「俺の祖父さんが古い約束を引っ張り出してきたんだ。律儀に付き合うこともない」
「私に、帰れる家はないので」
風花はしばらく考えてその言葉を出した。ちょっと語弊があるかと言ったあと思ったが訂正するのも変なので目を逸らさず文哉を見た。
文哉はそうかとまた言うと屋敷に戻った。