怖がり姫の外泊事情

 中谷 織枝(なかたに おりえ)は、外泊が嫌いだ。



 きっかけとなった幼稚園のお泊り会にはじまり、苦行のように参加した小学校の林間学校に、中高の修学旅行。部活選びは慎重に、合宿がないのを確かめて家庭科部を選んだ。
 とはいえ、家族旅行にはよく行った。両親は共働きだが、織枝の休みに合わせカナダ、イギリス、オランダ、イタリアと、それはもうグローバルな旅を楽しんだ。
 つまり、織枝は家族以外と外泊をするのが嫌なのだ。

 高校2年の冬に、織枝は初めての彼ができた。彼は、織枝と同じクラスで、明るく社交的な男子生徒だった。会話も楽しく、クラス公認カップルとまで呼ばれ、順調に思えた交際だった。

 2年生の修了式を3日後にひかえた、3月のある日。織枝は彼と別れた。理由は、織枝が彼との外泊を断ったからだ。
 彼は、よほど腹が立ったのだろう。プライドが傷つけられたのかもしれない。学校の教室で織枝に向かい「真面目」だの「融通が利かない」だのと言いだし、ついには「俺のこと好きじゃないんだろう」と、騒ぎだした。そばにいたクラスメイトを巻き込んでの大騒動となった。

 織枝は、外泊を断っただけで、ここまで大きな問題になるとは想像もしなかった。豹変した彼に対してもショックだったが、自分と世間とのズレにも落ち込んだ。
 仲裁をかってくれたクラスメイトたちも「騒いだあいつが悪いとは思うけど、好きな女の子と一日一緒に過ごしたい気持ちは、わからなくはない」と、彼に同情的だったのだ。
「彼氏=外泊」。この式は、織枝の脳裏に強く焼き付けられた。

 結果、晴れてほっかほかの大学生となった今でも、織枝は男の子と付き合いたいとは思えない。勿論、男嫌いではない。おしゃべりもすれば、何人かで一緒にお昼を食べるときだってある。
 大学の友人たちはみな気安く、男女関係なく仲が良い。織枝への呼び名も早々に「中谷さん」から「織枝」へと変わった。楽しい学生生活なのである。

 キャンパスでは、恋人たちもよくみかける。互いに慈しみ合い、幸せそうな彼らを見ていると、羨ましいと思う。けれど、彼氏ができたその先に、外泊問題が待っているのならば、ただ、好きだ嫌いだと呑気に言ってもいられない。あんな騒ぎは、もう懲り懲りなのだ。
 誰かに好意を抱いたところで、自分はお付き合いなんてできない。高校時代の苦い経験から、織枝はそう学んでいたのだった。
 よって、受験勉強から解放され、愛だ恋だと華やぐ中でも、織枝の生活は清いまま。高校生、いや、幼稚園時代にまで遡ったかのごとく、止まったままなのである。

 ちなみに、織枝の外見にも、やや問題があった。着ている服は、大学生女子が好んで着るそれなのに、どうも、年相応に見えないのだ。
 まあるい頬がいけないのか。はたまた、小さく柔らかなぽよっとした手がいけないのか。桃のような薄ピンク色の肌がいけないのか。
 未だに、授業のたびに織枝の姿を見て、一瞬ぎょっとする講師がいる。初めの頃こそ、周りの友人たちもそんな様子を面白がっていたが、近頃では、さすがに気の毒だと言い出した。
 けれど、昔からそういった視線を向けられている織枝にとっては、特別でもなんでもない。ある意味、そっち方面の感性は、鈍くなっているといってもよかった。
 そんな外見の幼さに加え「彼氏いりません」オーラを出しまくっている織枝は、一部の学生たちの間では有名で「織枝ちゃんを永遠の妹として愛でる会」も結成されていた。







 うっすらと浮上してきた意識のなかで、織枝は喉の渇きを感じた。でも、眠い。そうこうしているうちに、トイレにまで行きたくなって来た。まったく異なった3つの要求をしてくる自分の体を、織枝は呪った。
 喉が渇いたのは、我慢できそうだ。でも、トイレに行きたいのは、どうだろう。このまま、夜が明けるまで寝続けてしまうか。それとも起きるか。
 どうせ起きるのなら、先にトイレに行って、それからキッチンに水を飲みに行くか。それとも、水を飲んでからトイレに行くか。
 織枝の部屋は、トイレのすぐ隣だ。動線から考えるとそれが正しいように思う。けれど、トイレに行ったあと水を飲むのは、行動としては逆のような気もする。
 そう考えながらも、その全てを凌駕するほどの睡魔におとずれて欲しいとも思っていた。
 もやもやとしながら、織枝はごろんと寝返りを――うてなかった。本来なら、ごろんと転がるはずの体が、大きな物体に当たり、志半ばの90度で止まってしまったのだ。
 織枝の右腕はベットマットについたまま。それ以上の可動を許さないといったのが、今の状況だった。

「……痛い」

 痛い?
 物体が声を発した! 織枝は、体をもとにもどし、かっと目を開いた。しかし、部屋は真っ暗で何も見えない。その暗闇に、織枝は動揺した。
 ここは、どこ? 織枝の部屋が、真っ暗なはずないのだ。いつだって織枝は、眠る前に部屋の隅の明かりを灯すのだから。
 ついでに言えば、家の廊下だって、トイレだって、キッチンだって。織枝の行動範囲の全てに、小さいながらも明かりは灯されている。
 織枝が両親と暮らすマンションは、都会に近かった。そのため、夜空でもうっすらと明るい。つまり、織枝の部屋にかかる遮光率の低いカーテンでは、こんな真っ暗になるはずはないのだ。

 ――停電している?

 そうかもしれない。
 大規模停電で、織枝の部屋だけでなく、世間さまもみな暗いのだろう。となると、あの声はなんだ? 
「織枝、起きたのか?」
 男だ! しかも、織枝の名前を呼んできた。知り合い? 
 織枝は息を殺しながら、じりじりとその声の主から離れた。すぐに体が壁に当たる。織枝は、その壁に沿うように体を起こし、できるだけ小さくなった。
 この状況は、明らかにまずい。それくらい、織枝にだってわかる。でも、このまま黙っているわけにもいかない。

「だれ?」
「シオノ」
 シオノ。シオノ――塩野。塩野 宗太郎(しおの そうたろう)だ!
「……こんばんは」
「はい、こんばんは」
 思い出した。昨夜、織枝は塩野と一緒だったのだ。

 塩野は、織枝の同級生で、未成年なのにそこいらの上級生よりも貫禄のある、態度も体も大きなお方である。クラスが一緒なので、その勢いで織枝とは必修科目も一緒のことが多い。
 その塩野が、バイト先の人手不足を理由に、何日か大学を休んだ。彼のバイト先は大学の裏手にある古本屋だ。そして、久しぶりに大学に顔を出した塩野は、休んでいる間のノートを貸してくれと織枝に頼んできた。
 織枝は快諾した。彼女は、日ごろから真面目な塩野に、好感を抱いていたのだ。
 昨夜は、そのお礼に塩野が奢ってくれると言うので、彼のバイト先にお邪魔して本を読みながら仕事が終わるのを待ち、夕飯をたらふくご馳走になった。そして、さて、家に帰ろうとしたところ、電車が何らかの事情で止まっていたため、これまた大学と同じ街にある、塩野のアパートで時間を潰そうとお邪魔になったのだ。
 それから――。
 それから?

「ここ、塩野君のアパートだよね」
「俺、大家じゃないから、俺のアパートじゃないけど」
 あぁ、そうか、と納得しそうになる自分に、いや、そんな意味で聞いたわけじゃないしと、ツッコミを入れる。
「わたし、寝ちゃったんだ」
「うん。夜だしね」
 いや、だから、そんな意味で言ったんじゃないからと、またツッコミを入れる。
 暗い部屋でベッドが軋む。塩野が動いた。
「思い出した?」
 声が上からしてきたので、塩野も座ったのだろう。織枝は、塩野に見えないのはわかりながらも頷くしかできなかった。
「塩野君の部屋のカーテン、遮光率高いでしょ」
「遮光率? 安いのを選んだだけで、そんなん、気にしなかったな」
 塩野がカーテンを開けた。彼の横顔だけが少し明るくなって、織枝の前に現れた。
 鼻が高い。どちらかといえば、控えめな織枝のパーツとは大違いだ。彼は寝癖で髪がとっちらかっているが、それも様になっていた。
 暗い部屋で、塩野の顔は日中よりも優しく見えた。彼は少したれ目だった。それは、織枝の父親と同じた。
 織枝は窓から暗い街を眺めた。彼女が暮らす、夜でもざわつく街とは違い、ここで暮らす人々はみな眠っているように思えた。
「夜だね」
 ここには、本当の意味での夜が訪れていると織枝は思った。
「うん。夜だな」
 塩野は、そんな織枝の会話に付き合ってくれるようだ。自分の今の格好と、昨夜の記憶と、そしてこれまでの2人の間柄から考えても、男女のあれこれがなかったことは明白だ。
 噂によると、塩野には10歳年上の色っぽい彼女がいるらしい。それなので、こんな状況になっても、織枝は不思議と安心ができた。
 ――が。
 そっち方面で安心したが故に、また最初の悩みに戻るのだった。
 トイレか水か。トイレか。トイレだ!
 思いだした途端、行きたくなるのがトイレだ。水はもう、次でいい。飲まなくてもいい。織枝は冷や汗が出てきた。

「あの、塩野君っ。あのですね……」
「あぁ、トイレ?」
 塩野、察しがいい。けれど、彼に頼みたいのはそれだけではない。
「トイレについて来て!」
 織枝は、塩野にのしかかった。
「わたし、すっごい怖がりで、暗いの苦手で。おばけとか幽霊とか、この世に絶対にいるって信じているの。っていうか、いるのよ! 幼稚園のお泊り保育で、おばけを見たんだから! そのせいで、トイレに間に合わなくて、男の子たちに馬鹿にされて、笑われて。あのときの惨事と恐怖を思い出すと、ひとりでトイレになんて行けないの!」
 なりふり構わない。必死である。織枝は、馬鹿にされるかもしれないと思いつつも、塩野に話した。

 実際、中学時代、修学旅行への不安を親友だと思っていた友人に話したところ、ネタ扱いにされた上に、クラス中に晒された苦い思い出があるのだ。
 それ以来、織枝は怖がりの理由を、他人には話さなくなった。自分の悩みが、誰にでも受け入れてもらえるなんて、夢のまた夢なのだと悟った。
 いっそ、なんとも思わない相手であれば、さほどダメージはなかったと思う。親しい相手だと思っていたからこそ、自分の悩みを否定されたときの悲しさは、言葉にしがたいのだ。
 だから、高校時代の彼にも、言えなかった。外泊ができない理由をしつこく聞かれたけれど、どうせ理解してもらえないと、織枝は口をつぐんだのだ。

 織枝に、勢いよくのしかかられた塩野も、初めはびっくりした様子だった。けれど、織枝の話をさえぎることなく黙って聞くと「わかったよ。ほら、トイレについて行くから、とりあえずどいて」と、言ってきた。
 織枝は、塩野から離れ、ベッドを下りると「音楽。テレビでもなんでもいいから音の出るものをつけて」と、注文を付けた。
 焦りながらも、そこは死守する乙女ラインだ。塩野も文句一つ言わずに、織枝に従う。いきなりの賑やかな声と共に、暗い部屋にテレビショッピングの声が響きだす。
「――本日の、お買得商品は! ワケアリ蟹の詰め合わせです!」
 蟹のオレンジ色が画面いっぱいに広がる映像をちらっと見たあと、織枝は塩野のあとに続いて、ミッションを無事に果たした。




 こすった目で腕時計を見ると、針は7時6分を指していた。織枝は、明るくなった部屋のベッドから出ると、シワシワの服とこんがらがった肩までの髪を撫でつけた。塩野は、すでに起きていて、狭いキッチンで米を研いでいる。織枝は、塩野の隣に立ち朝の挨拶を交わした。

「塩野君、起きるなら私も起こしてくれればいいのに」
「おれ、5時半から起きているけど」
「早いよ。なにしてたの?」
「近所走って、シャワー浴びて。そうそう、織枝の寝顔も見ていたな」
 塩野がさらりと言う。なんだ、これ。すごいな、塩野。さすが年上の女性とつき合う男は、スキルが違う。
 塩野の髪は濡れていた。そして、シャンプーだろうか。柑橘系のいい香りがした。
「そうだ。シャワー浴びるか? アイロンも使うだろう。あとで貸すよ」
「アイロンがあるの? 塩野君、さすがだね」
「年の離れた姉がいてね。いろいろと勝手に置いて行くんだ」
「助かる。こんなシワシワな服じゃ、大学に行けないと思っていたんだ」
 塩野の笑い声がした。低くて心地よくて、少しくすぐったい。

「まずは、朝ごはんだよね。ご飯は、塩野君が研いだお米を炊飯器にセットすればOKでしょう。おかずは、どうしようか」
「ふりかけがある」
「なるほど。わたし、なにか作ってもいいかな」
「料理なんてできるのか?」
「意外とね、なんでもできちゃうわけ」

 とは言ったものの、織枝が塩野に断り冷蔵庫を開けると、中身はスカスカだった。かろうじて入っていたのは、卵3個と有名店の高価な出汁パック。そして、乾燥わかめだ。塩に味噌に醤油もあったので、味噌汁と卵焼きは作れそうだ。

「塩野君。卵焼きは、甘いんじゃなくて、だし味でいい?」
「うん」

 織枝は、腕まくりをした。両親の共働きに加え、中学、高校と培った料理の腕は、なかなかのものなのだ。毎年のおせち料理だって、織枝の担当だ。母なんて「一生織枝と暮らしたいわ」と、言い出す始末だ。――母。

「忘れてた。母に外泊の連絡をいれてなかった」

 織枝は自分のカバンから、携帯電話を取り出した。さぞかし、おびただしい数の電話や心配メールが届いているに違いないと思いきや、母からはメールも電話の着信も残っていなかった。
 無断外泊したのに心配していない? 不思議に思った織枝は、昨夜、自分が送ったメールを読み返した。
『電車が止まったため、大学の友達の家にいます』
 そんな織枝のメールに『了解』とだけ、母から返事が届いていた。
「大丈夫か? 今からでも、連絡した方がいいんじゃないか?」
「それがね、なんかこのメールで、大丈夫だったみたいなの」
 織枝は、塩野にメールを見せた。自分が送ったものと、親の返事を。塩野が、織江の携帯電話の画面をのぞき込むように、かがみこんだ。
 織枝としては、電車が動き次第、家に帰るつもりで出したメールだった。ところが、どうやら母は「友人宅に泊まる」といった意味に、解釈してくれた様なのだ。連絡がないというのは、そういうことだろう。日本語の懐の広さが生んだ、ファインプレーといえよう。
 しかし、織枝としては、このメールが、嘘になってしまったという自覚があった。勿論、わざとではないのだが。
「なんか、騙したみたいで、うしろめたい」
「嘘は書いてない。帰ったら、話せばいい。とりあえず、心配をかけずに済んだのだから、良しとすればいい」
 塩野が体をもどす。織枝は塩野を見上げた。彼は堂々としていた。織枝は、そんな塩野を見て「そうか。まぁ、いいか」と納得してしまった。気持ちが楽になった。

 塩野って、こんなひとだったのか。これは、年上の女性と付き合った成果なのか。それとも、もともとも彼の資質なのか。彼は、真夜中だというのに織枝の怖がり事情も聞いてくれた。バカバカしいとか子どもっぽいとか笑いもせずに、付き合ってくれた。そして、織枝のトイレに、文句も言わずについてきてくれた。
 織枝は、おばけを見たあの幼稚園時代に、塩野と出会っていたら、どうなっていただろうと思いを馳せた。織枝は、彼の側にいると、怖いものなどなにもないような気がしてきた。

 ごはんが炊けるまでの間、織枝は手早く調理を終えると、さっとシャワーを浴びた。バスルームに置いてあったシャンプーもボディソープも、以前雑誌で見かけた海外の有名メーカの品だった。香りが半端なく豊かで、リッチな気持ちになる。さらに、洗面所には小さいがドライヤーまであった。
 ここまできて、鈍い織枝もようやく気がついた。塩野の言う「年の離れたお姉さん」とは、本当の姉ではなく、恋人なのだ。巷で噂の、10歳だか20歳だか年上の彼女に違いない。
 織枝と塩野は同じ年だ。しかし、このスキルの違いはなんだろう。すごいひともいるものだと、織枝は感心した。

 塩野家の小さなちゃぶ台には、織枝が握った塩にぎりと、わかめの味噌汁に、だし巻たまごが並んでいた。どれも、おいしそうだ。織枝と塩野は向かい合って座った。料理をまえに、わくわくとした顔の塩野がかわいい。気のいい大型犬みたいだ。
「おれの顔、なにか変?」
「いやいや。そうじゃなくて、食べよう! やっぱり、料理してよかったな。卵焼きが一品あるだけで、なんとなく様になるもんね。よかった、よかった」
 塩野を誤魔化しながら、織枝は卵焼きを口に入れる。だしの味がじゅわっと口内に広がった。お高いだしパックのお陰で、予想以上においしくできた。思わず、笑みがこぼれる。
 そんな織枝を前に、塩野の箸を持つ手が止まった。
「……いや。全然よくないかも」
「やだ、卵焼きは甘い派? だったら、言ってくれればよかったのに」
 織枝は、わざとらしく頬を膨らませたが、塩野はびくともせずに、硬い表情のまま食事を続けた。

 さて、その日の昼休み。
 大学のキャンパスでは、昨日と同じ服を身にまとい、機嫌よく歩く織枝の姿がひそかに注目されていた。織枝の隣には塩野がいた。織枝と塩野からは、同じ柑橘系の香りがした。
 そんなふたりの様子に「織枝ちゃんを永遠の妹として愛でる会」のメンバーが涙を流したのは、本人たちの預かり知らぬこと。

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