日々のこと

野ばら

バラという花はもうずっと幼いころから知っていたけれど、春と秋が季節だということを知ったのはいくらか大人になってからだった。
春バラと秋バラは違いがあるらしい、ということもそのとき知った。
春バラは大きく鮮やかで華やか、秋バラは濃い色と豊かな香りが特徴だという。
ばらといえば、私はただまっすぐ、一途にシューベルトだ。
ゲーテの詩“野ばら”につけられたシューベルトのメロディは、いつだって音楽の喜びを教えてくれる。何も知らなかった子どもの頃から耳に馴染み、心を弾ませる。それなりに音楽を学び、詩の意味やゲーテとの関係など、様々な知識を得ても、それが耳に入るときの感じは変わらない。音楽の喜びが溢れ出す。ドイツ語でも日本語でもいい。そのくらい偉大な曲。
そしてそのシューベルトの野ばらは、秋のばらのイメージだった。シューベルト自体が秋の空気に似合うような感じがするのだ。あの、どこか哀愁を帯びた音楽。真面目で厳しかった父との関係。それでいて音楽に対する確かな喜び。それは紅葉し始める木々を背景にしたバラがよく似合う。と、思っていた。
しかし、いろいろと調べていくうちに知ったシューベルトの人柄。評価だとか、金銭的価値だとか、そんなのはどうでもいい。ただここにある美しいもの。そして彼の人生は、これから!というときに途絶えた。そんな早逝してしまったみずみずしい音楽家のことを思うとき、その音楽はまだ熟さずに、清らかな乙女のような旋律で歌うように響く。それを肌で味わうとき、春の鮮やかな野ばらのイメージが浮かぶ。まだまだぐんぐんと伸びる。青々と葉を茂らせて、大きく花を開かそうとする。春のバラもシューベルトに微笑みかけているようなのだ。
その結果、春でも秋でも日差しを浴びて咲くばらを見ればシューベルトを思い出す。どちらであっても美しい“野ばら”が響きわたるのだ。
そしていつでも、私がシューベルト作曲の“野ばら”を愛していること、愛し続けることは、これまでもこれからも変わらない。そう、断言しよう。
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