偽装溺愛 ~社長秘書の誤算~
「俵くん」
「お疲れ様です、副社長」
専務室を出ようと僅かに開けたドアを止めた。
「いやいや、きみのお陰で疲れるほど仕事してないよ。申し訳ないくらいだ」
最近の理人は目に見えてオーバーワークだ。
「この前の話、考えてくれたかい?」
副社長の声。
「はい」
理人の声。
「お相手がきみに相応しいとは思っていないが、仲介人の顔を立てて恩を売っておくのも――」
「――お引き受けします」
「え?」
副社長は、理人の言葉に驚いているようだ。
何のはな――。
「します。お見合い」
お見合い――――!?
「そうか! 無理に話を進める気はないから、そこは安心してくれていい」
副社長の少し高揚した声。
「ありがとうございます。私としても大変興味深いお相手ですので、楽しみにしています」
理人はいつも通り、穏やかで、少し緊張感のある声。
「興味深い……。物は言いようだな。とにかく、ありがとう。日程については――」
「――お任せします」
「そうか。では、先方にお任せしよう」
「はい」
靴音と共に遠ざかって行く二人の声。
理人が、お見合い……。
ショックを受ける資格なんてない。
わかっているのに、激しい鼓動が痛い。
痛すぎて、呼吸が苦しい。
苦しくて、涙が滲む。
理人が、結婚する。
私じゃない誰かと。
私じゃない誰かを抱きしめ、キスをする姿を想像すると、苦しくて表情が歪む。
眉をひそめ、必死にその想像を打ち消そうとするが、そうすればするほどより鮮明で生々しい姿となる。
私じゃない誰かはきっと、私より若くて、綺麗で、スタイルも良くて、お似合いだろう。
こんな卑屈な自分……嫌だ。
ずっと忘れていた感情。
『私なんか』『私のせいで』そんなネガティブ思考を払しょくしようとずっと頑張ってきた。
犯罪者の娘の私なんか……。
秘書という天職を見つけて、誰かに尽くし、必要とされることで、自分を奮い立たせてきた。
登さんに認められ、受け入れられ、力登を授かってからは、息子に恥じない自分でいようと頑張ってきた。
けれど――。
考えたくないけれど、どうしても頭の中から消えない想い。
犯罪者の娘じゃなければ……。
「如月さん」
ドアに向かって突っ立っていた私は、ハッとして振り返った。
すぐ背後に東雲専務が立っている。
「すみません。すぐに――」
「――気になる? 理人の見合い」
「……いいえっ」
髪が頬を叩くほど勢いよく、首を振る。
気になるなんて、言えない。
気にする資格なんて、ない。
「理人には、見合いしなきゃいけない理由はないよ」
「え?」
「女に縁がないわけでも、政略結婚が必要な家柄でもない。なのに、引き受けたんだ。きみのために」
「私の……ため?」
専務がふわっと微笑む。
「さ! そろそろ行こうか」
「あ、はい! すぐに準備してまいります」
私は部屋を飛び出すと、足早に秘書課に向かう。
私のために、お見合い……?
意味がわからない。
けれど、なにか意味があるのだろう。
冷え切った心の奥に、ほんの少しだけ、消えかけの線香花火のような小さな火が灯った気がした。